ロッシは5年連続で王座獲得。20代ですでに「生きる伝説」だった (2ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 2ストローク500cc最後のシーズンに16戦11勝で最高峰クラスのチャンピオンを獲得した2001年から、4ストローク990ccのMotoGPマシンが導入された翌02年にかけて、人気の上昇はまさにうなぎのぼりといえる状況だった。MotoGP元年のこのシーズン、他陣営を圧する高い性能のホンダRC211Vとロッシのコンビネーションは、無敵にみえた。

 開幕戦日本GPは当然のように優勝。第2戦こそ2位で終えたが、第3戦以降は連戦連勝を続けた。破竹の快進撃で前半戦を終え、後半戦もその勢いは続くと思われたが、夏休み明けの端緒となったチェコGPでは、運悪くレース中のタイヤトラブルにより、リタイアを余儀なくされた。この時は、ロッシが速度を落としてピットボックスへ戻っていく様子をプレスルームのモニターで見ていたが、満場のロッシファンが落胆にどよめく声が室内まで聞こえてくるような気さえした。

 とはいえ、次戦以後はリズムを取り戻し、結局、一年間を戦い終えてみればまたしても圧倒的優勢のシーズン。16戦11勝を挙げ、2連覇を達成した。

 翌03年は契約更改の節目の年だったが、ホンダとの残留交渉は決裂し、ヤマハへの移籍が決定した。

 当時のヤマハは、1992年のウェイン・レイニー以降、10年もの間ずっとチャンピオン争いから遠ざかっていた。しかも、MotoGP時代初年度のエース的存在だったマックス・ビアッジは、2003年にヤマハからホンダのサテライトチームへ移籍した。開発面でマシンの方向性を明示できるライダーが不在で、戦闘力の面でも、当時のヤマハYZR-M1は明らかにホンダRC211Vに劣っていた。03年の表彰台獲得回数は、全16戦48表彰台のうち3位が一回のみ。この惨憺たる成績が、当時のヤマハのポテンシャルを如実に物語っている。

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