親子二代でF1王者。デイモン・ヒルは困窮を乗り越えて勝利した (2ページ目)

  • 川原田剛●文 text by Kawarada Tsuyoshi
  • 桜井淳雄●撮影 photo by Sakurai Atsuo(BOOZY.CO)

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 裕福な家庭から一転、アルバイトをしながら生活費を稼いでいたというヒルがレースを始めたのは、20歳をこえてからだった。最初はオートバイのレースを始め、その後、4輪のレースに転向。限られた予算の中で国際F3000までステップアップするが、一度も勝つことができなかった。

 転機となったのは91年、ウイリアムズのテストドライバー就任だった。翌年にはブラバムから31歳で遅咲きのF1デビューを果たすが、この頃のブラバムは資金難で瀕死状態だった。ヒルが出場した8戦のうち予選を通過したのは2戦のみ。デビューは散々な結果に終わったが、ウイリアムズのテストドライバーとしてマシンの開発をしながら自らのドライビングを磨いていった。現在のような厳しいテスト制限もなかったため、2年間での走行距離は約2万9000㎞。レース換算すると95戦分に達していたという。

 92年、ヒルが開発に携わったマシンでナイジェル・マンセルが初の世界チャンピオンに輝く。しかしマンセルはウイリアムズと契約内容を巡ってもめ、急遽、F1を去ることになった。その後釜としてヒルが王者チームのレギュラードライバーに大抜擢されるのだ。

 その後、ヒルはウイリアムズでプロスト、セナのもとでドライビングを学び、当時ベネトンのシューマッハとタイトル争いを繰り広げることになるが、ふたりのキャラクターは対照的だった。

 自信に満ちあふれ、頂点を目指してがむしゃらに突っ走るシューマッハと、偉大なチャンピオンの陰に隠れた寡黙なヒル。シューマッハはヒルを「一流ではない」と侮辱したことがあったが、ヒルは沈黙を貫いた。心ないメディアからは「ウイリアムズに乗れば誰でも勝てる」と言われたこともあった。「その最速マシンを作り上げたのは俺だ」と堂々と言えばよかったのだが、そんな言葉を口にしなかった。

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