セナを激怒させ、六本木で飲み歩く。エディ・アーバインと日本の深い関係 (2ページ目)

  • 川原田剛●文 text by Kawarada Tsuyoshi
  • photo by Ferrari

無料会員限定記事

 1965年に北アイルランドで生まれたアーバインは、レースや車好きの父の影響でレースを始め、順調にF1直下の国際F3000(現在のFIA F2)までステップアップを果たす。ところがF1を目前にして活動資金が尽きてしまった。当時、腕はあるがお金がないというアーバインのようなドライバーがヨーロッパにはたくさんいた。彼らに救いの手を差し伸べたのが、バブル景気に沸く日本のレース界だった。

 1991年、当時25歳のアーバインは全日本F3000選手権にデビューし、参戦3年目には"日本一速い男"と呼ばれた星野一義と激しいチャンピオン争いを最終戦まで繰り広げる。さらにトヨタのマシンをドライブしてルマン24時間にも出場(92年~94年)。表彰台に上がる活躍を見せている。

「レベルの高いマシンに乗って腕を磨き、大金を稼いだよ」

 アーバインは日本時代をそう振り返っているが、彼はレースを戦いながらタイヤメーカーの開発ドライバーとしてテスト三昧の日々を送っていた。その対価として、アーバインは若手F1ドライバーの年棒をはるかに上回るギャランティを受け取っていた。実際、アーバインは94年にジョーダンでレギュラーシートを獲得した時、「ギャラが日本で入っていた頃の半分以下になった」とこぼしていたのは有名な話だ。

 アーバインはバブルの熱気が冷めやらぬ東京の生活が気に入っていた。六本木の街を自転車で駆け回り、のちにF1ドライバーとなる親友のローランド・ラッツェンバーガーなどの外国人ドライバーとつるんでよくパーティをしていた。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る