2019.10.24

ラリードライバー篠塚建次郎は70歳。
パジェロが年8万台売れた頃を語る

  • 川原田剛●取材・構成 text by Kawarada Tsuyoshi
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

――パリダカはラリーレイドと呼ばれ、マラソンのようなイベントですよね。

 僕はラリーでも、ずっと短距離走のほうをやってきました。サーキットのレースでたとえるならば、短距離はスプリントのF1、長距離は耐久レースのル・マン24時間というイメージですね。パリダカは長距離走に冒険を足したようなイベントでしたので、自分の走るラリーじゃないなと最初は感じました。でも何もしないよりはマシだと思い、86年はとりあえずパリダカを見てくるつもりで出かけていきました。

 出場したのは市販車クラスで、マシンは市販されているパジェロのディーゼルカーにカラーリングしただけ。いわば格好だけワークスマシンで、中身は市販車でした(笑)。その年はとりあえず完走して、「来年はどうする?」と聞かれたのですが、あまり乗り気じゃなかった。

――ようやく実戦を復帰できたのに、どうして?

 マシンがあまりに遅すぎて……。僕らのマシンは砂漠で時速70キロぐらいしか出ないのですが、ワークスマシンは150キロです。抜かれてばっかりだから全然面白くない。そう会社に言ったら、「じゃあ、速いクルマを準備する」ということになりました。

 でも、お金がかかるため新しいクルマは用意できないので、前年にフランス人が乗ったパジェロを直して走ることになりました。そのマシンで87年に出場したら、3位に入ることができました。この年のパリダカはNHKが放送していて、毎日のスポーツニュースで「今日、篠塚は3位で……」と取り上げてくれたんです。それがきっかけでラリーがメジャーになっていきました。

 また、87年はF1でも中嶋悟さんがレギュラードライバーになり、アイルトン・セナと組んで一緒に走ることになりました。それでF1とラリーが盛り上がっていき、いろいろなメディアでモータースポーツが取り上げるようになっていきました。

――篠塚さんがパリダカで走らせていた『パジェロ』も大人気になりました。当時は若者の憧れの的で、最盛期の92年には国内約8万4000台を販売しています。

 それまでパジェロの購入は自衛隊や営林署がメインで、一般のお客さんにはほとんど売れていなかったんです。毎月数百台しか売れなかったのに、毎月2000台とか3000台も売れるようになっていきました。苗場にスキーに行く時は、パジェロで行かないと恰好がつかないという時代でした(笑)。あそこから日本のSUVブームは始まりました。

 パリダカのおかげで三菱はイケイケになり、僕も88年には2位になりました。3位、2位と来たので、「次は優勝だぞ!」と思ったのですが、なかなかうまくいかなかったですね(笑)。

――初優勝はパリダカ初参戦から12年目の97年までかかりました。

 それでも毎年、それなりの成績(92年と95年は3位)を残すことができたので話題にはなっていましたね。あと自分ではもともと短距離も好きなので、88年からWRCにも参戦し、91年にはコートジボワール・ラリーに出場して、日本人初の優勝を飾ることができました。

 さらに94年と95年には『ランサー・エボリューション(通称ランエボ)』でサファリ・ラリーに参戦し、2年連続で2位になりました。自分としては理想的な形でラリー活動ができましたね。