ラリードライバー篠塚建次郎は70歳。パジェロが年8万台売れた頃を語る (2ページ目)

  • 川原田剛●取材・構成 text by Kawarada Tsuyoshi
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

――アフリカとの出会いはいつだったのですか?

 1976年に初めてアフリカのケニアを舞台にしたサファリ・ラリーに出場するチャンスを得た時です。当時、僕はサファリにはすごく憧れていました。なぜかといえば、石原裕次郎さんが主演した映画『栄光への5000キロ』(1969年公開)がカッコよかったからです(笑)。

――WRCの一戦として行なわれた76年のサファリでは、日本人初の入賞を飾り、現地では「ライトニング・ケンジロー」と呼ばれたそうですね。

 WRCで初めて6位に入賞したことで、当時は話題になりましたね。サファリには77年も出て10位で完走したのですが、その頃には自動車メーカーは排ガス対策のためにモータースポーツどころじゃなくなってしまったんです。僕が所属していた三菱はラリーをやめましたが、トヨタやニッサンもみんなモータースポーツから撤退してしまった。それから86年にパリダカに出場するまで、サラリーマン生活を送ることになりました。

――その8年間は何をしていたんですか?

 国内の販売促進部で、特別仕様車を企画したり、ディーラーの展示会を企画したり......。ドライバーとして走ることはなかったですね。会社をやめることも随分考えましたが、国内を見渡すと、どのメーカーもモータースポーツ活動をしていません。今は我慢するしかないと自分に言い聞かせていましたが、「このままドライバー人生は終わってしまうのかな......」という不安を抱えながら毎日を過ごしていました。それを救ってくれたのがパリダカでした。

――排ガス規制への対策にめどがついた各自動車メーカーは、80年代に入ると再びモータースポーツの活動を活発化させます。三菱も1983年よりパリダカにパジェロで参戦を開始しましたが、中心となったのはフランスの三菱販売店で、ドライバーはすべて外国人でした。それをどのように見ていたのですか?

 なんか遠いところでやっているなあ、という感じでしたね。83年は初めてパリダカに出場して11位でしたが、84年は3位、85年には優勝しちゃったんです。ライバルのポルシェを倒して日本の三菱が勝ったということで、ヨーロッパではそれなりに話題になったんですが、国内ではアフリカでフランス人ドライバーが優勝したといっても全然ニュースになりませんでした。

 社内では「やっぱり日本人が乗らないといけない」ということになり、誰かいないかとなった時に僕に声がかかりました。もう8年も走っていないので腕は錆びついているかもしれないけど、いいじゃないって(笑)。でもパリダカは、これまで僕が走ってきたラリーとはちょっと違うんですよ。

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