君はマン島TTを知っているか。100年の歴史に挑む日本メーカーの軌跡 (3ページ目)

  • スティーヴ・イングリッシュ●取材・文・撮影 text & photo by Steve English
  • 西村章●翻訳 translation by Nishimura Akira

 このレースの魅力に取り憑かれたのは、ライダーたちだけではない。バイクメーカーもこの100年の間、自分たちの技術が他より優れていることを証明すべく、覇を競いあってきた。

 その象徴的な例が、ホンダだ。ホンダにとって、マン島TTに参戦して勝利することは、戦後日本の復興と自分たちの技術力を証明することでもあったのだ。

 本田宗一郎がマン島TTへの参戦、すなわち世界グランプリへの挑戦を表明したのは1954年。

「(第二次大戦の敗戦により)この惨憺たる国土とした事は若いこれからの人に何としても申訳なく思いますが、ここに皆様の御教導を得まして、日本の機械工業の眠っていなかった事を全世界に誇示出来ますなれば、そしてこれを機会に自動車工業の輸出が始まりますなれば、若人に幾らかの明るい希望を持って頂く事が出来、技術者としての私の幸これに過ぎるものは御座居ません」(原文ママ)と記した出場宣言の檄文を、本田宗一郎はこう締めくくっている。「私の宿意と決心を申し上げこのTTレースに出場、優勝するため精魂を傾けて創意工夫いたしますことをここに宣誓いたします」

 ホンダがついに参戦を実現させたのは1959年。そして、その3年後に初優勝を達成した。それ以来、二輪ロードレースの世界では欧州メーカーの優勢に終止符が打たれ、日本企業の時代が到来する。マン島でホンダのマシンは、現在まで183勝を達成している。

 ホンダのみに限らず、スズキとカワサキも、この公道レースには足跡を残している。

 マン島TTは、今年で70周年を迎えるMotoGPが、その最初の年に最初のレースとして開催された地だが、カワサキがグランプリの最高峰クラスで優勝を飾ったのは、1975年のシーズン第5戦・マン島TT(優勝者=ミック・グラント)が最後である。

 また、スズキにとっては、このTTが大きな節目になった。1962年にはエルンスト・デグナーが50ccクラスで優勝。1963年には伊藤光夫が日本人として初めて、そして唯一の優勝を飾った。

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