いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 (3ページ目)

  • 米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki
  • 桜井淳雄●撮影 photo by Sakurai Atsuo(BOOZY.CO)

 突然この世を去ったセナの後を継いでチャンピオン争いをすることになった1994年や、圧倒的な速さを誇るベネトン・ルノーの前に為す術(すべ)がなかった1995年のヒルならば、そんなプレッシャーのかかる状況で本来の速さを発揮することができず、自滅していたかもしれない。

 だが、ヒルが重圧に押し潰されることはもうなかった。逆に重圧に負けたのはビルヌーブのほうで、スタートで出遅れて大きく6位まで後退。そこから猛烈なプッシュで4位まで追い上げたものの、37周目の1コーナーで右リアタイヤが脱落してコースオフ。ビルヌーブのルーキー王座の望みはグラベルのなかで潰(つい)え、チェッカードフラッグを待たずしてヒルの初戴冠が決まった。

 36歳という遅咲きの王者は、15歳のときに父グラハムを飛行機事故で亡くし、その事故機に同乗していたチーム関係者の遺族への莫大な補償金を支払わなければならなかったため、家計は窮乏した。バイク便のアルバイトをしながら2輪でレース活動を続けたが、4輪デビューは25歳、そして31歳でようやくF1デビューを果たした苦労人だった。

 チェッカードフラッグを受け、パルクフェルメに戻ってマシンを停めると、そこには長きにわたって苦楽をともにしてきたジョージー夫人の姿があり、ヒルは真っ先に彼女のもとへ行き、抱き合った。

 F1史上初の親子二代にわたる世界チャンピオン誕生の瞬間は、こうしてやってきた。しかし、先述のようにデイモンがレースをする姿を父グラハムが見たことは一度もなく、デイモンは他の二世たちのように恵まれた環境で育ってきたわけではない。むしろ、偉大な父と重ね合わせて比べられるという、苦しみばかりを味わってきたと言っても過言ではなかった。

 しかし自身が王座に就き、ようやくその苦しみから解放された。彼は「偉大な父グラハムの息子」ではなく、デイモン・ヒルという「ひとりの偉大なドライバー」へと成長したのだ。

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る