亜久里の3位と、モレノの涙。苦労人たちの1990年日本GP表彰台 (3ページ目)

  • 米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki
  • photo by Getty Images

 これでダメなら引退する――。

 そう言って臨んだ1990年シーズンの、それも地元・日本GPで、亜久里はキャリア最高の快走とツキのよさをフルに発揮し、表彰台という晴れの舞台へと駆け上がった。それはまさしく、多くの人々が亜久里に魅了され、熱狂し、支援を惜しまなかった理由そのものだろう。

 そして1990年の鈴鹿の表彰台をより一層ドラマティックなものにしたのが、ベネトンのワンツーフィニッシュと、ブラジル出身の「苦労人」ロベルト・モレノの涙だった。

 1982年にはF3マカオGPを制し、1988年にはフェラーリ639の開発ドライバーを務めながら国際F3000を制すなど、モレノは実力がありながらも資金力に恵まれず、若いころから苦労を続けてきた。1989年にコローニからフル参戦のチャンスを得るが、予選通過は4度のみで、翌年はユーロブルンで予備予選通過にも苦労させられた。弱小チームで悲哀を味わう亜久里と同じような境遇にあったのだ。

 1979年にイギリスに渡ったばかりでお金のなかったころには、同じリオデジャネイロ出身のネルソン・ピケと行動をともにし、女性の部屋を転々とするピケについて回ってソファで眠ったこともあった。

 そんなモレノをふたたび救ったのが、ピケだった。日本GP直前のヘリコプター事故で重傷を負ったアレッサンドロ・ナニーニの代役としてモレノを推挙し、かつての師弟コンビを復活させた。ベネトンに加入していた技術責任者ジョン・バーナードが、フェラーリ時代にモレノの実力と人柄を高く評価していたことも味方した。そして、その日本GPで2強4台が自滅するという幸運に恵まれ、モレノはF1初入賞にして初の表彰台に立ったのだ。

 ウイニングランを終えて、パルクフェルメに帰ってきてマシンを降りたモレノは、感極まって号泣。優勝したピケと抱き合って泣きじゃくった。慣れない表彰台では国歌の演奏が始まっても帽子を取るのを忘れて、表彰台の真ん中に立つピケに小突かれて慌てて脱帽し、薄くなった髪を舐めた指で整える仕草でおどけてみせた。そんな人懐っこさも、モレノの魅力だった。

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