昏睡1カ月。ミハエル・シューマッハの「奇跡」を再び (2ページ目)

  • 川喜田研●文 text by Kawakita Ken photo by Getty Images

 彼の人生は常に「サーキット」という戦場にあり、彼は最強にして最高の戦士だった。「皇帝」が時に「悪魔」の顔を覗(のぞ)かせ、その勝利への貪欲さが強引なドライビングにつながって批判されることもあった。「ターミネーター」とも呼ばれたのは、そうした勝利へのこだわりやドライビングから、戦士としての性(さが)や、強烈なオーラが彼の全身から放たれていたからだろう。

 もうひとつ忘れてはならないことがある。それは1994年、95年とベネトン(現在のロータスF1)で2度の世界チャンピオンとなったシューマッハが、96年にフェラーリに移籍し、当時低迷していたイタリアの名門を最強チームへと再生させたことだ。

 2000年以降、2004年まで5連覇を達成したシューマッハとフェラーリが築き上げた黄金時代(コンストラクターズは99年から6年連続で優勝)の印象があまりに鮮烈なので、少し意外に感じるかもしれないが、96年時点でフェラーリは深刻な低迷期にあった。ドライバーズ選手権では79年のジョディ・シェクターを最後に、コンストラクターズ選手権でも83年を最後にタイトルから遠ざかり、名門ならではの重圧の下で、「お家騒動」と呼ばれる内紛と組織改編を繰り返していた。

 現代のF1では、勝つための要因として、マシンの性能やチーム力が大きな比重を占める。どんなに才能に恵まれたドライバーでも、「勝てるマシン」や「勝てるチーム」抜きに成功を収めることはできない。逆に、適切なタイミングで勝てるチームに自らの身を置くことができれば、トップクラスのドライバーでなくても勝利に手が届く場合もある。つまり、F1ドライバーの運命は、「いつ、どこのチームに在籍するか?」で決まる部分もあるのだ。

 それを理解しながらも、シューマッハは不振続きだったフェラーリに飛び込み、さまざまな困難に直面しながらも粘り強く再建に取り組み続けた。シューマッハという最高のドライバーと共に戦うために、テクニカル・ディレクターのロス・ブラウンやデザイナーのローリー・バーンなど、優秀な人材が続々とフェラーリに集まり、勝利するためにチーム一丸となって100%の力を注ぎ続けた。

 シューマッハがフェラーリに16年ぶりのコンストラクターズタイトルをもたらしたのは、移籍から4年後の1999年のこと。そして、翌2000年にはフェラーリにとって実に21年ぶりとなる念願のドライバーズタイトルを獲得。自らの力で「名門復活の道」を切り拓いてみせた。

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