天皇賞・春で思い出す名馬ライスシャワー。「ウマ娘」でもヒール役だが最後はファンに愛され、非業の死を遂げた (3ページ目)

  • 河合力●文 text by Kawai Chikara
  • photo by Kyodo News

 その後、ライスシャワーは長いスランプに陥ってしまう。3連覇阻止から2年間、勝ち星は遠のき、2、3着が精一杯だった。まるで2度のGⅠ制覇で役目を終えたかのように、精彩を欠いていく。

 さすがにもう復活はないだろう――。ファンもそう思い始めた中、復活のときはやってきた。1995年4月23日、3連覇の阻止から2年後の天皇賞・春だった。

 混戦ムードと言われたこの年の"春の盾"。戦前の雨で芝コンディションは「重馬場」。水分を含んだタフな状態だった。

 障害を除くJRAのGⅠレースで、天皇賞・春は最長距離となる。向こう正面のバックストレッチからスタートし、約1周半で勝負を決めるマラソンレースだ。スタートから先行したライスシャワーは、まず1周目のホームストレッチで6、7番手を追走した。

 動きがあったのは、向こう正面に差し掛かったとき。黒い馬体がすっと先頭に立ったのだ。京都競馬場は、2コーナーから3コーナーにかけて4m近い高低差があり、3コーナーまで上り坂、3コーナーから4コーナーにかけて下り坂の構造。「淀の坂」といわれる名物で、この坂を越えるまでは動かないのが勝利のセオリーだった。

 だが、ライスシャワーは坂の手前からロングスパートを敢行して先頭に立った。そのまま坂を越え、4コーナーでさらに力強く他馬を引き離すと、最後の直線では外から追い込んだステージチャンプをギリギリ抑えて、2年ぶりのGⅠ制覇を決めたのである。

 同馬の主戦ジョッキーだった的場均元騎手(現調教師)は、あのロングスパートについて「ここで動いたら、勝てるかもしれない」と考え、ライスシャワーに「ここで行ってもいいかな」と心の中で尋ねたという。すると、その思いを読み取ったかのように、ライスシャワーみずから動き出したと著書の中で振り返っている。

 幼い頃から賢い馬で、人の言うことを素直に聞いたと言われている。そんな従順な性格が、あのスパートを生んだのかもしれない。そしてこの復活勝利は、勇猛果敢な戦法と相まって、ライスシャワーを"ヒール"から脱却させた。

 その証拠に、同馬は続くGⅠ宝塚記念(京都・芝2200m※例年は阪神)に"ファン投票1位"で選出される。本来、宝塚記念は阪神競馬場で行なわれるが、この年は阪神・淡路大震災の影響により京都競馬場での開催。淀を得意とすることから、陣営は出走を決めた。

 だが、ここでライスシャワーを悲劇が襲った。スタートから行きっぷりが悪く、後方を進んだ同馬は、3コーナーから4コーナーの途中でレース中に突然転倒。骨折を発症したためだった。

 一度は必死に立ち上がったが、すでに手の施しようのないほど重度の骨折であり、その場で安楽死の処置が取られた。念願のヒーローになった瞬間、過酷にも、ライスシャワーの生涯は幕を閉じてしまったのである。

 事実は小説より奇なりというが、改めて生涯を振り返って、こんな筋書きは誰にも書けないと思う。それでも、最後の最後にヒーローとなり、ファンから愛されて生涯を終えたことは、せめてもの救いだったと願いたい。ヒールとなった当時、必死に勝利をつかんだこの馬には、何の罪もなかった。

 それから26年。"淀"こと京都競馬場は現在、改修工事に入っている。そのため、今年の天皇賞・春は阪神競馬場で行なわれる。淀を愛したライスシャワーは、果たしてどこからこのレースを見ているだろうか。その勇姿も思い出しながら、伝統のレースを見てみたい。

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