【競馬】ブリランテのダービー制覇を目撃した生産者の「心中」 (3ページ目)

  • 河合力●文 text by Kawai Chikara
  • JRA●写真

 残り200mの標識を過ぎた時点で、ディープブリランテは完全に先頭へと躍り出た。ワールドエースとゴールドシップは、まだ後方。3着争いが精一杯の状況だった。言うなれば、2012年のダービータイトルは、限りなくディープブリランテに近づいたと言える。だがそのとき、外から一頭、ディープブリランテと同じ勝負服の馬が強襲してきた。同じサンデーレーシングの所有馬で、トライアルの青葉賞(4月28日/東京・芝2400m)を勝ってダービーに駒を進めてきた、5番人気のフェノーメノだった。

 内で懸命に粘るディープブリランテに、大外からフェノーメノが猛追する。死力を尽くした2頭は、並んでゴールに飛び込んだ。ゴール前の勢いこそフェノーメノだったが、ディープブリランテも最後まで懸命に四肢(しし)を伸ばした。

 全馬がゴールした直後、電光掲示板の1着、2着の欄には写真判定の表示が点灯。伊藤氏はこのときも、やはり「負けた」と思っていたという。

「今回も、『最後にかわされてしまった』と落胆していました。ゴール前の勢いもフェノーメノのほうが上でしたし、とても勝てたとは思えませんでした。社長は隣で、ずっと『勝っている!』と叫んでいましたけどね(笑)」

 しかし伊藤氏も、ターフビジョンに映し出されたゴール前のストップモーションを見直して、胸に湧き上がるものを感じた。ゴールの瞬間、わずかに、ほんのわずかに、ディープブリランテの鼻先が出ていたのだ。

 2001年のパカパカファーム開場から、11年で訪れたダービー馬誕生の瞬間である。

 あのときのことを「信じられない」と表現したスウィーニィ氏は、ダービーを改めて振り返り、率直な思いを語った。

「競馬では、一番強い馬が勝てないことがたまにあります。フェノーメノは、正直に言えば、ちょっとアンラッキーでした。最後に少しヨレてしまいましたから。あれがなければ、結果はどうなっていたか、わかりません。でも、ディープブリランテがマークしたダービーの勝ちタイム(2分23秒8)は、歴史的な名馬であるディープインパクトとキングカメハメハ(ともに2分23秒3)に次ぐ、史上3番目の速さ。それまでのブリランテの成績を見ても、(ダービー馬にふさわしい)能力は間違いなくあります。細かい話はともかく、あのときはひたすら喜びました。本当にうれしかったです」

 ゴール後、興奮状態だったスウィーニィ氏は、「すぐに、アイルランドの奥さんに電話した」という。かたや伊藤氏は、歓喜のシーンを迎えながらも、なぜか「悔しさ」ばかりが込み上げてきたという。それはなぜか?次回はダービー後のパカパカファームの喧騒とともに、その理由に迫る。

(つづく)


  ハリー・スウィーニィ

1961年、アイルランド生まれ。獣医師としてヨーロッパの牧場や厩舎で働くと、1990年に来日。『大樹ファーム』の場長、『待兼牧場』の総支配人を歴任。その後、2001年に『パカパカファーム』を設立。2012年には生産馬のディープブリランテが日本ダービーを制した。
『パカパカファーム』facebook>

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る