【競馬】有馬記念で思い出す「衝撃の名馬」マツリダゴッホ (2ページ目)

  • 村本浩平●文 text by Muramoto Kohei
  • photo by Hideharu Suga

 そんな、波乱の主役となったマツリダゴッホは、2003年の3月15日、新ひだか町の岡田スタッドにて生を受けている。父であるサンデーサイレンスは、その前年に心不全のために16歳で死去。つまりサンデーサイレンスの最後の世代となったマツリダゴッホだが、その血統背景、そして恵まれた好馬体もあって、デビュー前から注目を集める存在となっていた。

 デビュー戦(2005年8月21日)は、札幌競馬場の芝1800m戦。2着馬に7馬身差をつけた。その勝ち方から「来年のクラシック候補」として注目される存在となったが、その後は勝ちあぐむレースが続き、皐月賞と日本ダービーには出走できなかった。

 そして、三冠クラシック最後となる菊花賞も、トライアルレースのセントライト記念(2006年9月17日/中山・芝2200m)で他馬と接触して落馬競走中止。大舞台への切符を手にすることはできなかった。この頃のマツリダゴッホは、まだ完成仕切っていなかっただけでなく、運にも見放された馬だった。

 しかし、4歳を迎えたAJCC(2007年1月21日/中山・芝2200m)で重賞初勝利をあげると、以後、重賞レースの常連となり、その年の秋にはGⅡのオールカマー(2007年9月23日/中山・芝2200m)も制した。本格化の兆しが見えてきた中で迎えたのが、年末の有馬記念だった。

 実績だけで言えば、そうそうたるGI勝ち馬たちに見劣りこそしたが、マツリダゴッホはこうした馬たちにも勝る、ある特性を持っていた。それは、有馬記念が行なわれる中山競馬場のコースでは、競走中止となったセントライト記念を除き、6戦4勝、2着1回、3着1回という成績を残している、無類の"中山巧者"だったのである。

 ゆえに、このときの有馬記念も、まるで中山競馬場のコースを「庭だ」と言わんばかりに、マツリダゴッホは気持ちよさそうに先行した。最後の直線に入ると、前を行くダイワスカーレットを交わして一気に先頭に立った。ダイワスカーレットも追いすがるが差は縮まらず、後方待機策をとったウオッカ、メイショウサムソンも伸びてはこなかった。GI馬たちを力でねじ伏せた、まさに衝撃のドリームレース制覇だった。

 その衝撃を思い起こさせるように、マツリダゴッホの初年度産駒たちが今年、大いに躍動した。6月8日、東京のメイクビュー(新馬戦)でマイネルギャルソンが勝ち上がると、デビューした産駒たちは次々に勝ち鞍をあげていった。およそ2カ月で13頭の馬が出走し、4頭が勝ちあがり、一時はあのディープインパクト産駒の勝率を上回っていた。そして12月16日現在、2歳のリーディングサイヤーでは17位と、種付け料が高額なトップ種牡馬たちとも肩を並べている。

 この半年で、マツリダゴッホ産駒は30頭が出走し、6頭が勝利を飾ってきた。彼らの中から、来年のクラシックで脚光を浴びる馬が出てくるかもしれない。そのとき、マツリダゴッホが競馬界に再び衝撃を与えることになる。

ノルマンディー オーナーズクラブHP
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村本浩平(むらもと・こうへい)
1972年、北海道生まれ。大学在籍中に執筆活動をスタート。馬産地である北海道を仕事のフィールドとしていることもあって、牧場関係の取材が多く、生産者の声や思いを『優駿』『競馬ブック』などの競馬専門誌に寄稿している。

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