【競馬】日本競馬に精通した外国人ホースマンに芽生えた「野心」 (3ページ目)

  • 河合 力●文 text&photo by Kawai Chikara

 事あるごとに、日本の競馬システムの素晴らしさ、完成度の高さを語っていたスウィーニィ氏。ゆえに、フリーのトレーダーとなってからも、彼の頭の中には「アイルランドに帰る」という選択肢はなく、日本において、長いスパンでステップアップできる形を求めていた。そんなスウィーニィ氏にとって、毎回身を削るようなトレーダーのビジネスは、先を見据えたときに不安があったという。

「2、3年の期間ならまだしも、何十年という長い時間を、このリスクを背負い続けてビジネスをする気にはなれませんでした。何より、家族のためによくありません。でも牧場なら、活躍馬を出してブランドが育まれていけば、安定してステップアップできるかもしれません。もちろん簡単ではないことですが、自分の人生を考えたときに、牧場を作るならこのタイミングしかないと思ったのです」

 無論、再び日本の牧場に勤務するという選択も可能ではあったが、ここでもスウィーニィ氏は家族のことを考えて、フレキシブルに動ける“自分の牧場”にこだわった。 

 このような複数の動機から、スウィーニィ氏は『パカパカファーム』の開場を決断した。だが、外国人が日本で競走馬生産を行なうには、農地法をはじめ、極めて高い壁がいくつも存在する。もちろん、スウィーニィ氏がそのことを知らずに開場を決断したわけではない。

 ではなぜ、スウィーニィ氏はその先の困難を知りながらも開場を決意することができたのか。実は、そこにはトレーダー初期に遭遇した、牧場開業への「伏線」とも言える、ある出来事があった。次回は、その出来事と開場までのエピソードに迫る。

(つづく)
  
ハリー・スウィーニィ

1961年、アイルランド生まれ。獣医師としてヨーロッパの牧場や厩舎で働くと、1990年に来日。『大樹ファーム』の場長、『待兼牧場』の総支配人を歴任。その後、2001年に『パカパカファーム』を設立。2012年には生産馬のディープブリランテが日本ダービーを制した。

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