【競馬】冠名「マチカネ」全盛時代に、外国人牧場長が抱えた悩み (2ページ目)

  • 河合力●文 text&photo by Kawai Chikara

 待兼牧場は当時、屋根付きのトラックコースなど、日本でも有数の育成施設を備えていた。その設備の中で今までに培ってきたノウハウを生かせば、必ずや活躍馬が誕生すると感じていたという。

 その予感どおり、スウィーニィ氏が待兼牧場の全権総支配人を務めた1995年から1998年の間に、"マチカネ軍団"は最盛期を迎える。

 1997年の菊花賞を勝って、オーナーに初めてのGIタイトルをプレゼントしたマチカネフクキタル。同じ年にデビューし、ダート戦線で重賞レースを3勝したマチカネワラウカド。そして、世界的良血馬としてアメリカから購入され、重賞2勝を挙げたマチカネキンノホシと、次々に活躍馬が出てきた。

「育成を手掛けた馬が素晴らしい成績を残してくれた待兼牧場での3年間は、本当に楽しかったですね」と、スウィーニィ氏が笑顔で振り返るのも不思議ではない。

 しかし、順風満帆に見えた一方で、大きな問題にも直面していた。自身の家族に関することである。

「来日した1990年はまだ新婚でしたから、妻とふたりの北海道暮らし。妻は日本での生活にまったく不満を言わず、常に私を応援してくれました。大樹ファーム時代には、自らトラクターの運転を練習し、手伝ってくれたほどです。本当に彼女には感謝していますし、ケンカした記憶もありません。そんな私が、家族について悩み始めたのは、日本に来てから生まれた子どもたちのことです」

 スウィーニィ氏には現在、4人の子どもがいる。すべて日本に来てから生まれた子で、一番上の長男は、来日の翌年である1991年に誕生した。

 当初、子どもたちを保育所に預けての生活に何ら問題を感じていなかった。だが、長男の小学校入学が迫るにつれ、子どもたちの教育について毎晩頭を悩ませていたという。それがちょうど、待兼牧場で全権総支配人を務めていた時期にあたる。

「私たちの住んでいた場所にはインターナショナルスクールがありません。ですから、このまま日本で子どもたちが暮らすということは、日本語で勉強するということになります。決して、それがダメというわけではありません。子どもたちは日本語を話せましたし、日本の小学校や中学校、高校に進学することに何の異議もありませんでした。ですが、問題は大学進学。日本語で勉強するということは、すなわち日本の大学に行くということになります。これが、私の心に引っ掛かったのです」

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