【ゴルフ】全米プロで花開くか。「AON」になくて、松山英樹にあるもの

  • 三田村昌鳳●文 text by Mitamura Shoho
  • photo by Getty Images

 全英オープンのテレビ解説を務めていた青木功が、思わず感嘆の言葉を漏らした。
「この子は、すごいよねぇ。どんなことにも順応しちゃうんだもん。コースにも、芝にも、風にも、何もかも......。ほんと、大したもんだ」

「この子」とは、10位タイと奮闘した6月の全米オープンに続いて、全英オープンでも活躍した松山英樹のことである。4日間安定したゴルフを披露し、最後まで上位争いを演じた。最終的には6位タイでフィニッシュして、海外メジャーで連続トップ10入りを果たした。そのプレイぶりを見て、青木は絶賛した。青木の漏らした言葉は、お世辞でも何でもなく、松山という存在に抱いた、偽らざる気持ちだったと思う。

ブリヂストンインビテーショナル(8月1日~4日)では、タイガー・ウッズと同組でラウンドした松山英樹。ブリヂストンインビテーショナル(8月1日~4日)では、タイガー・ウッズと同組でラウンドした松山英樹。
 遡(さかのぼ)ること数カ月前、日本ツアーのダイヤモンドカップ初日(5月30日)に、松山と同組でラウンドしたジャンボ尾崎も、「天性のものがある」と掛け値なしに松山の才能を称えた。「オレも若い頃はあんなだったかなぁ」と、羨ましそうに松山の姿を見つめていた。

 世界でも結果を残した、日本を代表するトッププロふたりが惚れ惚れとしてしまうのは、彼らにないモノを松山が持っているからだ。青木になくて、松山が持っているのは、飛距離。ジャンボになくて、松山が持っているのは、図太さである。それぞれ、世界で戦うには必要な要素で、それがあれば、青木もジャンボも世界の頂点に立っていたかもしれない。それだけに、青木やジャンボが成し得なかった"夢"を、松山なら実現できるのではないか、という期待を抱かずにはいられない。

 実際、青木やジャンボの挑戦を見てきた者として、松山には日本人初のメジャー制覇の可能性を大いに感じる。青木やジャンボが挑戦していた頃よりも、その現実感は間違いなくある。

 青木やジャンボの挑戦にも、「勝てるかもしれない」と思ったことはある。事実、メジャー制覇へあと一歩というところまで、ふたりは何度か迫っている。だが、マスターズこそ若いときに招待されているものの、彼らが積極的に海外メジャーに参戦し出したのは、ともに30代の後半になってからだった。

 1970年代当時、青木やジャンボが若い頃は、日本ツアーが最優先されていた。特にふたりはトーナメントには欠かせない選手で、ジャンボがある大会の出場を1週間前に辞退したときなど、告訴騒ぎが起きたほど。ギャラリーの動員やテレビ視聴率に多大な影響をおよぼす存在だったのだから、致し方ない。そうした状況の中、日本のトーナメントを休んで、海外の試合に出場することなど考えられない時代だった。

 ゆえに、1980年、青木が全米オープン(2位)でジャック・ニクラウスと優勝争いを演じたのは、38歳のとき。1989年、ジャンボが全米オープン最終日のバックナインで、一度は首位に並んだ(最終的に6位)のは、42歳のときだった。その年齢で、精神的にも、肉体的にも、過酷なメジャーを制するのは、さすがに難しいことだった。

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