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サッカー日本代表が対戦する強豪オランダのワールドカップ史 ベテランライター「1974年の姿と今の日本がダブって見える」 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Takeo Goto

【極めて斬新だったトータルフットボール】

 大会前にオランダの評価が高くなかったのは「日本で」という意味ではない。

 当時、僕は英国の雑誌『ワールドサッカー』を定期購読していたが、欧州を中心に世界のサッカーを扱っていた同誌でも、やはりオランダはダークホース扱いだった。

「クラブと代表は違う」という考え方だったのだろう。

 現在はメガクラブには世界各国のトップ・オブ・トップの選手が集まり、しかも戦術的完成度が高いので、強豪クラブは代表チームよりも強い。だが、1970年代には各国リーグに外国人選手の制限があったので、ひとつの国の優秀な選手たちが自国の各クラブに分かれてリーグ戦を戦っていた。

 だから、彼らが集まった代表チームがクラブチームより強いのは当然と思われていた。

 それで、クラブレベルでアヤックスがどんなに強くても「代表は別」と思われたのだろう。

 だいいち、オランダは第2次世界大戦前の1934年のイタリア、1938年のフランスの両大会に出場していたものの(ともに1回戦敗退)、戦後は一度もW杯に出場したことがなかった。

 人口が少なく経済力も小さいために、クラブの財政規模も小さくプロ化も遅れていた。たとえば、オフサイドトラップのために押し上げた守備ライン後方の広大なスペースをカバーするスイーパー的役割を果たしたGKのヤン・ヨングブルート(FCアムステルダム)は、たばこ店を経営するセミプロだった。

 アヤックスにしても、ビッグネームを移籍で獲得したりせずに、生え抜きの選手だけを使ってミケルス監督とクライフが作り上げてきたチームだった。

 それが、「トータルフットボール」と呼ばれる革新的なサッカーだった。

 チャンスと見ればDFでも攻め上がり、それで空いたスペースは前の選手がきっちりと埋める。相手ボールには集中してプレスをかけて奪いに行く......。現代サッカーでは当たり前のことかもしれないが、当時のそれはきわめて斬新なものだった。

 僕は、オランダの試合は2次リーグの東ドイツ戦で初めて見た(クライフのマークを命じられたコンラート・ヴァイゼはクライフがシューズを履き替えている間も雨のなかでタッチライン際に立ってクライフを見張っていた)。

1974年西ドイツW杯、オランダ対東ドイツ戦の入場券(画像は後藤氏提供)1974年西ドイツW杯、オランダ対東ドイツ戦の入場券(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る それは、大きくパスが回って選手たちが流動的に動くダイナミックなサッカーだったが、アマチュア時代の日本サッカーしか見たことがなかった日本人青年にとって、ピッチ上で展開されているサッカーの戦術的な仕組みを理解するなど、とうてい不可能だった。

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