フランク・ライカールトを「世界最高のMF」と言わしめた知的センス サッキもファン・ハールも賛辞を惜しまなかった (2ページ目)
【インタビューを断った意外な理由】
彼の名が広く知れ渡ったのは、1988年のヨーロッパ選手権(EURO)だ。主にセンターバックとして活躍。守るだけではなく、最終ラインからの攻撃参加でオランダを活性化した。
ソ連(現ロシア)との決勝は、ファン・バステンが角度のないところから決めたボレーが大きなインパクトを残しているが、その一方でライカールトはオレグ・プロタソフを完封している。オランダ初となるメジャータイトルの獲得を、陰になり日向になり支えた。
ヨーロッパ選手権のハイパフォーマンスが高く評価され、1988年夏にレアル・サラゴサからミランに移籍。当時のオーナーのシルヴィオ・ベルルスコーニによると、ライカールトの獲得は「月に向かうためのロケット」だそうだ。期待の大きさがうかがい知れる発言である。
アリゴ・サッキ監督に率いられたミランは、ゾーンディフェンスとハイプレスで世界の最先端を走っていた。この高度なカルチョに、ライカールトは即フィットする。フランコ・バレージが操る最終ラインの前で、攻守のバランスを絶妙なまでに整えていた。
フリットの存在感、ファン・バステンの得点感覚もさることながら、中盤の底に位置するライカールトこそがミランの肝、と言って差し支えなかった。知性的で高度な状況判断、柔軟で強靭な肉体、スピード......など、各方面から「世界最高のMF」との賞賛が絶えなかった。
1988‐89シーズンにチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制し、1989年と1990年はトヨタカップを連覇。さらに1991-92シーズンと翌シーズンもミランはセリエAの頂点に立った。その中核を担っていたのがライカールトであり、滅多に選手を褒めないサッキ監督をして「トータルに優れたMF」と言わしめたほどだった。
サッキ監督の言葉を借りるまでもなく、ライカールトはすばらしいMFだった。多少の自己アピールなら許されるレベルでありながら、表に出ることを嫌がった。トヨタカップで来日した際、広報を通してインタビューを申し込むと、以下のような答が返ってきた。
「面白い話ができないので、インタビューはお断りします。ファン・バステンやフリット、バレージのほうが有意義なインタビューになると思います」
「時間がないから」とか「疲れているから」との理由で断られた経験はあった。しかし「話が面白くないから」は初めてだった。その後、懸命に食い下がり、15〜20分ほどの時間を割いてもらったが、ミランの戦術、練習内容を丁寧に説明してくれた。ささやくように、小さな声で......。
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