旗手怜央が語る甲子園準優勝の父親の存在「いつも背中を押してくれた」「今も大切にしている言葉がある」

  • text by Harada Daisuke
  • photo by Getty Images

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旗手怜央の父は、PL学園で甲子園準優勝経験のある野球選手だった。今回はその父との子どもの頃の思い出や、あることがきっかけで大きく感じた父の背中、父から言われて今も大切にしている言葉などを教えてくれた。

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【子どもの時は自分も野球を嗜んだ】

 2月26日に行なわれたスコティッシュリーグカップ決勝でレンジャーズを2-1で破り、優勝できたことは、直近のレンジャーズとのリーグ戦(第20節)で2-2と引き分けていただけに、"特に"悔しさを晴らす意味でも大きかった。

 特に、と強調したのにも理由がある。1月2日にアウェーで行なわれた、そのレンジャーズとの大一番には、正月休みも兼ねて家族が現地まで観戦に来てくれていた。

 セルティックに加入した時は、コロナ禍でグラスゴーに来てもらうのは難しかったが、ようやく世の中も落ち着き、初めて自分がセルティックでプレーする姿を見てもらえた。それだけに家族に勝利をプレゼントできなかったことは、心のなかで悔しさとして強く残っていた。

 すでに知っている人もいるかもしれないが、僕の父は、PL学園で野球に励み、㏍コンビで知られる桑田真澄さん、清原和博さんともプレーしていた。甲子園で準優勝した経験もある。自分がその事実を知ったのは高校生になってからで、それくらい父親は自分のことをあえて語らない人だった。

 僕が三重県鈴鹿市に生まれたのも、父親が本田技研鈴鹿(現・Honda鈴鹿)で社会人野球の選手をしていたためだ。だから、物心がついた頃には父親が野球の選手で、野球がうまいということもわかっていた。その影響もあって子どもの時は自分も野球を嗜んだ。小学校の帰りに友人と野球をした記憶もあれば、父親とバッティングセンターに行った記憶もある。

 そんな自分がサッカーを始めたのは、周りに野球ではなく、サッカーをやる友人が多かったからだった。もしかしたら父親は野球をやってほしいという思いがあったのかもしれない。でも、一度も野球を勧められたことはなく、サッカーに熱中するようになってからは、いつも「頑張れよ」と応援してくれた。

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