板倉滉の新天地ボルシアMGの黄金時代。バイエルンよりオシャレだった

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by Getty Images

W杯優勝の英雄にイタズラされたことも

 1974年W杯でネッツァーがベンチを温め続けたのは、西ドイツ代表をスポンサードするアディダスの圧力に違いないと勝手に推測した筆者が、アディダスよりプーマを好むことになった理由でもある。判官贔屓をくすぐられることになったのだ。当時ナイキは存在しなかったので、サッカー選手の嗜好は、ほぼアディダスとプーマに2分されていた。

 バイエルン対ボルシアMGは、アディダスとプーマの代理戦争でもあった。元をたどれば、アディダスとプーマは兄弟会社である。筆者はある雑誌の企画で、それぞれのドイツ本社を訪ね、その経緯について取材を重ねた経験がある。バイエルン、ボルシアMG両軍に所属したローター・マテウスの実家を訪ね、母君に逸話はないかと話をうかがったこともある。

 欧州の上空を飛ぶ機内で、ライナー・ボンホフにイタズラをされたこともあった。1974年W杯決勝で、ミュラーの決勝ゴールにつながるマイナスの折り返しを送った、あのボンホフである。

 ジェルで固めツンツンとした筆者の短髪を、ひとつ後ろの席に座る人が面白がるように触っていた。なんだと思って振り返れば、周囲の乗客から、「この人はボンホフだ。キミ、知っているか?」とレクチャーされ、驚かされることになったのだが、これも何かの縁ではないかと勝手に思っている。

 ボンホフも、前の座席に座るツンツン頭の日本人が、1974年7月7日の深夜、自らが決勝点をアシストしたシーンを、日本のお茶の間で観戦していたという事実を知れば、さぞや驚いたに違いない。さらに、半分そのせいで、サッカー系のスポーツライターという職に就き、その取材のために欧州の地を訪れているという経緯まで知れば、握手ぐらい求めてきた可能性はある。

 それはともかく、ボルシアMGのチームカラーは白、黒、緑だ。その昔、「ネッツァー・アツール」は高価すぎて手を出せなかったが、白を基調とした中に黒と緑のストライプが入ったボルシアMGのユニフォームは購入することができた。正規品ではなかったかもしれないが、袖を通した瞬間、心がときめいた記憶がある。

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