「なぜブラジルが世界の頂点に立つことができたのか」。あの日から20年、チームスタッフが見た2002年W杯優勝までの道のり (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

ロナウド復活プロジェクト始動

 また、スコラーリはロナウドを信用し、使い続けた。当時のロナウドは、1999年、2000年と同様に右膝の靱帯を痛め、なかなか思うようにプレーができなかった。彼が所属していたインテルのエクトール・クーペル監督などは「彼はもう終わった選手」などとも発言していた。しかしスコラーリはロナウドとこんな話をしたという。

スコラーリ「W杯でプレーしたいか?」
ロナウド「こんな質問されたのは初めてです。もちろんプレーしたいに決まってます」
スコラーリ「わかった。しかし他の者よりも2倍は練習が必要だぞ」

 ロナウドはそれを受け入れ、スコラーリはその言葉を信じた。

 こうして、ロナウドをフィジカルだけでなく、メンタル的にもヒーローに戻すオペレーションが始まった。スコラーリはそれに「オペラサオ・ジ・ゲラ(戦いのオペレーション)」という名前をつけた。ロナウドの復活がブラジルにとってカギとなるのを、スコラーリは理解していたのだ。

「オペラサオ・ジ・ゲラ」では、ロナウドを特別にサポートする、ふたりのドクターとふたりのフィジカルトレーナーからなるチームが作られた。なかでもフィジカルトレーナーのパオロ・パイシャウ(彼はジュビロ磐田にもいたことがある)は、ほぼ2カ月間、ロナウドにつきっきりだった。食事の時にも必ず彼の隣に座り、何を食べたらよくて、何がダメなのかを厳格に指示しているのを私は何度も目にした。

 スコラーリの周囲の人間も、メディアもサポーターも、「ロマーリオを外して、ロナウドを入れるなどばかげている」と反対した。しかし頑固なスコラーリはそれに耳を貸さなかった。

 セレソンの周りでは非難の嵐が吹き荒れていた。しかしスコラーリはそれを逆手に取り、チームの結束を高めることに成功した。

「我々は、我々以外のすべてと戦う。相手チームだけではない、メディアや非難してくるもの、すべてとだ」

 彼は何度もそう言っていた。外界とチームを遮断し、繭の玉のなかに居心地のいい空間を作り上げ、セレソンはまるで大きな家族のような雰囲気だった。スコラーリ父さんと23人の兄弟たち。誰とはなしに、「ファミリア・スコラーリ(スコラーリ・ファミリー)」と呼ぶようになった。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る