オシムが祖国と教え子たちにもたらしたもの。50年来の友人記者が激動の人生を振り返る

  • ズドラフコ・レイチ●文 text by Zdravko Reic
  • 利根川 晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

ストイコビッチが語るオシム

 たとえばW杯前の親善試合でスペインに勝った時、チームみんなで乾杯をして勝利を祝った。しかしベオグラードの記者は、空の酒のボトルの写真を撮り、こんなキャプションをつけて新聞に載せた。「オシムはいったいどれだけ飲んだ?」。まるで彼が酒浸りであるかのように報道したのだ。

 他の代表監督と同じように、彼も記者に率直に話すことを危険と感じるようになってしまったのだろう。それでも私たち旧知の記者との交流は続き、それは私たちの国が分かれてしまった後も続いた。夏のバカンスをともに過ごしたこともあった。

 彼も私も、長く続いていたユーゴスラビアの紛争に翻弄されることは多かった。多くの民族が集まるユーゴスラビアは常に多くの問題をはらんでいた。

「ユーゴスラビアという国がバラバラでなければ、そしてもう少しの運があれば(これはもちろん準々決勝でディエゴ・マラドーナのアルゼンチンとあたったことを指す)、私の代表は90年のイタリアW杯で優勝していただろう」

 イビチャはことあるごとにそう嘆いていた。

 ピクシーことドラガン・ストイコビッチは、現在セルビアの代表監督であるが、彼は現役時代、イビチャのお気に入りの選手だった。彼もまた言う。

「イタリアW杯での我々は本当にポテンシャルの高いチームだった。準々決勝でアルゼンチンにあたったのは本当にアンラッキーだった。対戦カードだけでなく、我々はほとんどの時間を10人でプレーしなければいけなかった。それでも我々は延長まで互角に戦ったが、PK戦で敗れてしまった。オシムは偉大な監督であり、なにより策略家だった。

 92年に彼がユーゴスラビア代表監督の座を退くと涙を流しながら公表したことは、今でも忘れない。我々はすでにその数週間後に始まるヨーロッパ選手権への出場を決めていたが、彼は故郷のサラエボに爆弾を落とすベオグラードの政府に、もう我慢できなくなっていた」

 イビチャは多くの外国のチームの監督を務めてきたが、心の一部はいつもサラエボにあった。

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