中田英寿、セリエA制覇から20年。日本人の価値を高めた圧倒的存在 (4ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by AFLO

 試合終了後、トルシエ監督は再び中田に決勝戦出場を求めたが、結局、中田はスクデット獲得を目前にしたローマに帰還。その後、トルシエ監督が中田の選択に不満を示すなど、当時はメディアやファンの間でも激しい論争になった。

 それでも、ローマがスクデットを決めた試合のピッチに、中田が立っていた意味は大きい。日本人サッカー選手の可能性を世界に知らしめたという意味では、まだ公式大会として世界的に認知されていなかったコンフェデレーションズカップ決勝でプレーするよりも、はるかに重要だった。

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 その年の夏、それを証明するかのように多くの日本人が海外に旅立った。

 小野伸二がフェイエノールト(オランダ)、稲本潤一がアーセナル(イングランド)、欧州挑戦2度目の西澤明訓はボルトン(イングランド)、高原直泰はアルゼンチンの名門ボカ・ジュニオルスに移籍。10月には川口能活がGKとして初の欧州移籍を果たし、ポーツマス(イグランド2部)の一員となった。

 日本サッカーの歴史を動かしたのは、まさに中田のスクデット獲得にあったと言っていいだろう。

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