日本を破ってW杯3位。クロアチアの「黄金世代」は引退後も貢献度大 (3ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • cooperation by Zdravko Reic

 ボバンが「絶対にしない」と誓っていることがある。それは監督だ。「私の神経はきっとその職に耐えられないだろう」と言っている。

 ファッションデザイナーの妻との間には娘が1人おり、その他にも4人の養子を育てている。テニスのゴラン・イワニセビッチとは親友で、ときおりインドアテニスを楽しんでいるようだ。シューケルの次にサッカー協会の会長になるのは彼しかないと、多くの人々が思っている。

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 このように、当時のクロアチア黄金世代の選手は、多くがその後も何らかの形で代表チームと関わり、現在も同国のサッカー界に大きな影響を与えている。

 たとえば、クロアチア代表の中盤でボバンとともにゲームをコントロールしていたプロシネツキ。彼は90年イタリアW杯でユーゴスラビア代表としてもゴールを決めており、初めて2つの国の代表としてW杯で得点した選手となった。

 高いテクニックを持ち、スペインではバルセロナとレアル・マドリードの両チームでプレーしている。また、ザグレブではカズ(三浦知良)と一緒にプレーしたこともあった。偉大な選手だった彼も、サッカー界に残っている。2006年に代表監督になったスラベン・ビリッチを、アリョーシャ・アサノビッチとともに補佐している。

 また、守備の要だったスラベン・ビリッチは2004年から2006年まではクロアチアU-21代表、2006から2014年までA代表の監督を務めた。

 実は彼はミュージシャンでもあり、「ラウヴァウ」というロックバンドのギタリストだ。2008年のヨーロッパ選手権では、自らが率いるクロアチア代表の応援歌を発表。自伝のタイトルも『スラベン・ビリッチ――サッカーとロックンロールの物語』となっている。法学部の学士号も持っているインテリなのだ。

 1990年10月17日のアメリカとの親善試合が、独立国家クロアチア代表の最初の試合とされている(正式には、独立宣言はまだだったが)。この試合で、クロアチア代表の記念すべき1ゴール目を決めたのがアサノビッチだった。

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