選手が生き生きする戦術。アンチェロッティ監督の「職人芸」の中身 (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

 昨季からはプレミアリーグのエバートンを率いている。名門には違いないが、これまでのような優勝して当たり前というチームではない。60歳を超えて監督としての新しい挑戦と言えるかもしれない。

<シルバーコレクターから常勝監督へ>

 パルマで選手としてのキャリアをスタート、ローマに移籍して中心選手として活躍した。ローマでは1982-83シーズンにスクデットも獲っている。その後、ミランに移籍、ミランでも不可欠のMFとしてアリゴ・サッキ監督から重用された。

 イタリア代表にも選出されている。ただ、アンチェロッティは渋い脇役であって、チームのスターはほかにいた。ローマではパウロ・ロベルト・ファルカン(ブラジル)、ミランにはフランコ・バレージ(イタリア)、ルート・フリット、マルコ・ファンバステン、フランク・ライカールト(以上オランダ)など。

 ローマ時代はプレーメーカーとして活躍し、時にはFWでもプレー。ミランではセントラルMFとして攻守をリンクし、あるいは4-4-2のサイドハーフとしてハードワークもこなした。選手時代のアンチェロッティはスーパースターではなかったが、いくつものポジションと役割をこなせるバランスのいい選手で、それが監督として役立っているように思える。

 1995-96にレッジャーナで監督デビュー、1シーズンでセリエA昇格を果たした。このころのアンチェロッティ監督は、まだサッキの影響を強く受けている。4-4-2のプレッシングスタイルだった。ところが、次のパルマではジャンフランコ・ゾラ(イタリア)らスーパータレントを擁しながら使いこなせなかった。「選手より重要なシステムはない」と悟ったのはこの時期だ。

 ユベントスでは、勝利のシステムと信じていた4-4-2ではなく3-4-1-2を採用した。ジネディーヌ・ジダン(フランス)のためにトップ下のポジションを用意したのだ。パルマでは選手をシステムに当てはめようとしてうまくいかなかった。チームとしては2位まで上昇できたが、あと一歩及ばなかった。安定した強いチームはつくれても、最後の仕上げでは個の能力、とくに創造性がモノを言うことをパルマの時に痛感していた。

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