ベンゲルが振り返る自らのサッカー人生。「他のすべてを犠牲にした」 (3ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 地方の村の出身だったベンゲルにとって、ヨーロッパで一番のフットボール強国であるドイツとのコネクションは、生涯に及ぶ学びをもたらした。僕は2008年に、スイスでのあるイベントで、ベンゲルが当時バイエルンの監督だったオットマール・ヒッツフェルトと行なった対談のホスト役を務めた。休憩時間にベンゲルは、ほぼ完璧なドイツ語でヒッツフェルトを質問攻めにした。

 バイエルンのセントラル・ミッドフィールダーは1試合に何キロ走るのか。バイエルンのウインガー、フランク・リベリーは身体的にどれだけ強いのか(「体重が100キロあるクラブのドクターを背負い、ふざけて洗面台にすっぽり入れたことがある」と、ヒッツフェルトは答えた)。

 ベンゲルはドイツのフットボールから何を得たのだろう。

「私のキャリアを形づくってくれたと言うべきだろうね。ドイツ人はいつだって『フットボールをプレーしたい』と望んでいる。『相手に主導権を与えておいて弱点を突こう』というような姿勢じゃない。チームがチームとして自分たちを表現しようとしている」

 これがベンゲル個人のイデオロギーになった。「自分たちのスタイルで勝つ」というものだ。

「歴史に残るチームは、それぞれのスタイルを貫いてプレーしている。フットボールはアートにならなければいけない。勝つことは基本だが、それを越える野心がなくてはダメだ」

 帰属する国が歴史的にあいまいだったアルザス地方の出身者にはありがちなことだが、ベンゲルも自分のことを「ヨーロッパ人」と考えている。ダットレンハイムの村だけではない世界を見たいと思った彼は、1974年にハンガリーで1カ月を過ごした。当時の共産主義政権がどう機能しているかを見たかったからだ。

「この国はいずれ崩壊すると確信した」と、ベンゲルは振り返る。ハンガリー滞在から5年、29歳になったベンゲルは、英語を習得するために英ケンブリッジ大学に3週間通った。フットボールのコーチとしてキャリアを築くには、英語が必要だと思ったためだ。

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