元祖天才が久保建英を詳細に分析。「消えた天才たちとは明確に違う」 (2ページ目)

  • 鈴木智之●取材・文 text by Suzuki Tomoyuki
  • photo by AFLO

「ヨーロッパのチームはプレッシャーが速く、守備も厳しいです。そのなかで、相手のプレスをどうかわしていくか、どうすれば、次に自分がしたいプレーに入れるかといった部分は、子どもの頃から習慣化されているような気がします」

 さらに、こうつづける。

「日本人選手が海外でプレーするとなった時に、最初に直面するのが、日本とは異なるプレッシャーの速さ、強さです。久保選手は幼い頃にスペインでプレーしていましたし、日本に戻ってきてからは、常に自分の年齢より上のカテゴリーでプレーしていました。レベルの高い環境、年上の選手とプレーすることで努力を重ねながら適応していった経験が、いまに生きているのではないかと思います」

 久保の歩みを見ていると、10歳でスペインに渡り、13歳で帰国後、FC東京U-15むさし、FC東京U-18、U-23、トップチームでプレー。年代別代表では、中学生時にU-19日本代表に選ばれ、15歳でU-20W杯を経験。17歳でA代表に選出されるなど、常に上のカテゴリーでプレーしてきた。

 いわば飛び級の連続だったわけだが、菊原氏はその重要性を、自身の経験も踏まえてこう語る。

「僕が中学生時代に飛び級していなかったら、成長のスピードが遅かったと思います。いわゆる天才と呼ばれてきた選手って、中学生や高校生ぐらいまでは、よっぽど高いレベルに行かない限り、それほど苦労しないんです。でも久保選手は常に上のカテゴリーでプレーしてきたので、経験値はすごく高い。それは、いままで天才と呼ばれてきた選手とは、明らかに違いますよね。いま19歳ですが、30歳ぐらいの経験値を積んでいるのではないでしょうか」

 菊原氏は中学3年生時に、当時の日本代表が居並ぶ、読売クラブのトップチームに昇格した。紅白戦では加藤久、都並敏史、松木安太郎といった代表クラスとマッチアップすることが多かったという。

「当時の読売は日本代表選手ばかりで、最初はプレッシャーの速さや球際の強さなどに戸惑いました。でも半年から1年が経つと、ボールを奪われたり、身体をぶつけられたりしながら、相手との距離感やかわすタイミングなど、トップレベルのプレーに順応していきました」

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