小野伸二の雄姿に震えた。日本サッカー史に残るシーズンの大団円 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 赤木真二●写真 photo by Akagi Shinji

 まず、予備予選3回戦から出場する中田英を追いかけた。しかし、パルマはヴァヒド・ハリルホジッチの率いるリールに、絶対有利と言われながら、まさかの敗戦を喫して落選する。初のチャンピオンズリーガーに輝く選手は、小野か稲本に絞られていた。

 2001年9月11日。ローマ対レアル・マドリードの一戦はなんとか行なわれたが、翌日の試合はすべて中止になった。アメリカで同時多発テロが勃発したためだ。

 中止の一報は、ローマで試合を観戦した翌朝、フェイエノールト対バイエルン戦を観戦するためにロッテルダムに向かうその道中で伝えられた。アーセナルの試合ではなくフェイエノールトの試合に向かった理由は、稲本より小野のほうが、出場する可能性が高いと踏んだからだ。

 翌週、フェイエノールトの小野は、スパルタク・モスクワとのアウェー戦で、アーセナルの稲本はシャルケとのホーム戦。そして、筆者はと言えば、イタリアに出かけ、ユベントス対セルティック、ラツィオ対ナントを、それぞれトリノとローマで観戦した。稲本は出場機会に恵まれないだろうと読み、また小野に関しては、はるばるモスクワまで追いかけていく気力が湧かなかったからだが、いずれにしても、イタリア行きの選択は失敗に終わったのだった。

 2001年9月19日。稲本がシャルケ戦に交代出場し、日本人初のチャンピオンズリーガーに輝いたという話を聞かされたのは、ローマのオリンピコの記者席だった。近くにいた数人の日本人記者と、該当選手が稲本だったという事実に驚愕し、地団駄を踏んだ記憶がある。

 筆者が日本人のチャンピオンズリーガーを、実際にこの目で初めて見たのは、同年10月10日。フェイエノールト対バイエルン戦になる。

 後半28分、背番号14を背負った小野が、サロモン・カルーと交代で投入された瞬間、ゾクゾクッとした記憶は鮮明だ。

 その3年前、日本が悲願の初出場を果たした98年フランスW杯で、日本代表がトゥールーズのピッチに整列した瞬間より、ナショナリズムはくすぐられた。

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