カペッロ流は「勝って何が悪い」のサッカー。娯楽性と結果、どっちが大事?

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

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 戦術的な改革を起こしたのはサッキだったが、現代につながるスタイルを構築したのはむしろカペッロである。

 磨き上げられたウイニング・マシーンは、現代の監督の多くが理想とするものに違いない。それだけ多くの監督はカペッロのように真面目で、「仕事」としてサッカーに向き合っているのだ。その意味でカペッロはプロフェッショナルで現代的な監督だった。

 しかし、エンターテイナーではない。プロサッカーは娯楽産業でもあるので、その点で批判されるのは当然と言える。

 カペッロが重視していなかった「意外性」こそ、面白いサッカーには欠かせないのだ。とくに意外性もなくルーティーンのように勝っていく仕事感まる出しのサッカーは、ウイークデーの仕事を終えて応援するファンにとってどうなのか。ファンを喜ばせ、感動させてこそ、エンタメ産業のプロといえるのではないかという批判だ。

<娯楽性か結果至上主義か>

 カペッロが勝ちまくっていた時代から現代まで、カペッロ的なサッカーが溢れかえっている。当時は批判されたカペッロ流も、今では普通になってしまっているのでむしろ違和感がない。

 カペッロは「娯楽性の欠如」との批判を黙殺し、聞き流しつづけた。ファンは勝利をいちばんに望んでいる、勝利のためにベストを尽くして何が悪いという理屈だろう。

 現在、どのチームもカペッロのチームに似ているのは、そこに勝てる理由があるからだ。逆に、そうでなければ勝てない。監督の任務はまず勝つことなので、任務遂行に熱心で真面目な監督ほど娯楽性は顧みなくなる。やがてファンもそれに慣れ、娯楽性など贅沢品だと考えるようになっている。勝つことだけを楽しむようになった。

 サッカーが競技でありゲームである以上、すべてのチームは勝利のためにプレーするが、面白いサッカーをして勝つのと、勝つのが面白いのは、似ているようで根本的な違いがある。サッカーが先か、勝利が先かという違いだ。勝つためだけにプレーするなら、それがサッカーである必要がない。

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