バルサ大敗で「メッシ頼み」時代の終焉。救いの要素が一切なかった (3ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by Reutes/AFLO

 今回の敗戦には、そうした救いとなる要素は一切ない。このメンバー、この監督、このサッカーでは、何度戦ってもバイエルンに太刀打ちできそうもない絶望的な敗戦だった。バルサのサッカーから、この手の限界を見たのはこれが初めて。そうした意味でこの一戦は事件なのだ。

 バイエルンはこのところ、CLの決勝トーナメントで肝心な試合になると力を発揮できず惜敗する、間の悪さをくり返し披露してきた。パリ・サンジェルマンにも言えることだが、国内リーグにライバルがいないことと、それは密接な関係にあった。CLのベスト8をコンスタントに狙えるチームが複数いるプレミア勢、スペイン勢にはないハンデを、バイエルンは今季も抱えながら戦うかに見えた。

 ところが昨年11月、ニコ・コバチ監督に代わりフリックが監督に就任すると、サッカーはいっそう今日的になった。どのチームよりいいサッカーになった。ひと言でいえば、ピッチを大きく使った展開力に富むダイナミックなサッカー、となる。

ボールを奪われることを想定しながら攻めているので、相手ボールに転じても穴が生まれない。高い位置から網を掛けやすい状態を維持しながら、攻めている。奪われてもすぐに奪い返すサッカーができている。

 けっして斬新なサッカーというわけではない。これまでも求めるべきいいサッカー像として、語られてきたものである。しかし、どのチームも完成させることはできなかった。2015-16シーズンから3連覇を達成したレアル・マドリードも、そうした視点から見ると、何かの要素が2割程度欠けていた。バルサも、フランク・ライカールト時代からジョゼップ・グアルディオラ時代にかけて、その方向に向かっていったが、近年は遠ざかるばかりだった。リオネル・メッシに頼る古典的なサッカーに埋没していた。

 バイエルンにメッシはいない。好選手は多くいるが、我の強いバロンドール級のスーパースターはいない。サッカーも、自国開催のW杯(2006年)あたりから守備的サッカーから脱皮。オーソドックスな攻撃的サッカーになった。

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