レバンドフスキ、31歳でキャリアハイ。スポーツエリートが持つ究極のプロ意識 (2ページ目)

  • 鈴木達朗●文 text by Suzuki Tatsuro
  • photo by Getty Images

 レバンドフスキは、優れた長距離ランナーだったこともあり、サッカーだけをやらせてもらえる環境ではなかったようだ。幼い時はサッカーができない状態が不満だったものの、現在になって振り返れば、両親の判断に感謝しているという。「多くの競技を経験したのが優位に働いているのは、確実だね。サッカーだけをプレーしていたら、僕の筋肉は、ここまでの柔軟性を得られなかった」と本人は話す。

 レバンドフスキの両親は、自身がサッカーの専門外であるのを理解し、プレーに関して口を出さなかった。その代わり、息子のロベルトがきちんとした指導を受けられるように環境を整え、サポートを惜しまなかった。トレーニングのたびに片道2時間ほどの距離にあるワルシャワのクラブまで送迎をつづけた。

「両親は、僕のためにすべてを尽くしてくれた。それは、僕がプロ選手になると、あらかじめわかっていたからではないよ。単純に、僕が心からサッカーに打ちこんでいたことに気づいたからさ」

 試合の時も、ピッチ脇から大声でわめいたりせず、静かに見守った。何か話すとすれば、帰路の車の中で静かに話し合った。プロになり、ほかのチームメイトと話をするなかで、自身の両親がほかの選手の両親とは違っていたのに気づいたと言う。「僕の両親は、決して僕にプレッシャーをかけなかった。僕は、そのことに大きく感謝している」。

 両親がレバンドフスキにアドバイスをしたのは、アスリートとしての考え方やキャリア形成の部分だ。「僕の両親は、僕の歩んだキャリアと同じ道のりを先に経験しているからね。両親は、僕がある特定の状況に直面した時、そういった場合にどうすればいいのか、説明しようとしてくれていた」と振り返る。この言葉を裏付けるように、レバンドフスキのキャリアは、着実に一歩ずつステップアップしていった。

 癌で父親を失った2004-05シーズン、レバンドフスキは16歳で4部のデルタ・ワルシャワでデビューした。翌シーズンは欧州の大会にも名を連ねるポーランドの名門レギア・ワルシャワのセカンドチームへ移籍。ポーランド2部のレベルを体感したあと、2006-07シーズンに出場機会を求めて当時3部のズニチュ・プルシュクフへ移籍した。このシーズンに得点王となり、2部昇格に貢献。翌シーズンも2部で32試合出場、21得点で得点王に輝いた。

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