歯科医だったコロンビアの名将。30年前に先進的サッカーができた謎 (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by AFLO

 アトレティコ・ナシオナルの監督にフランシスコ・マツラナが就任したのは87年だ。国内リーグを制し、コパ・リベルタドーレスに優勝。89年のトヨタカップに至る経緯はサッキと同じである。

 さらにマツラナはコロンビア代表監督も兼任していて、87年のコパ・アメリカではアルゼンチンを破って弱小だったコロンビアを3位に導いていた。そして、驚くべきことに監督業を始めたのは86年。トヨタカップの時点で3年が経過していたにすぎない。

 監督になる前のマツラナは歯科医だった。

<奇才デレオンの戦術を受け継ぐ>

 マツラナはプロのサッカー選手としてプレーする傍ら、歯科医の仕事もつづけていた。82年に現役を引退し、歯科医に専念するつもりだったが、アトレティコ・ナシオナルの監督だったルイス・クビジャの勧めでウルグアイへ指導者として研修に赴くことになる。この時に出会ったのがホセ・リカルド・デレオンである。マツラナにプレッシングを伝授した人物と言っていいだろう。

 デレオンは60年代にウルグアイのクラブチームを率いていた。当時のメディアの評価は「ウルグアイサッカーの破壊者」「アンチ・フットボール」だ。彼の著書である『私の革命』のサブタイトルが「アンチ・フットボールか完全なフットボールか?」になっているのは、それだけ物議を醸した監督だったということだ。のちに再評価され、現在では「トータルフットボールの先駆者」と呼ばれている。

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