かつてシメオネとグアルディオラが激突。アトレティコ本拠地の数奇な歴史 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by Mutsu Kawamori/MUTSUFOTOGRAFIA

 マドリードの市街地から車でバラハス空港に向かおうとすると、メトロポリターノを、その右手に望むことができるのだが、かつてこのあたり一帯には何もなかった。地下鉄も伸びていなかった。こんな大田舎にスタジアムなんか建てて、誰が見に行くのだろうか。筆者はぶつくさ言いながらタクシーで観戦取材に向かった記憶がある。

 1996年8月28日、スーペル・コパ(スペインスーパー杯)第2戦。アトレティコ・マドリード対バルセロナ。

 この試合が、事実上のこけら落としだった。当時のスタジアム名は「コミュニダッド・デ・ラ・マドリード」。この頃は陸上トラック付きの総合競技場だった。

 なぜビセンテ・カルデロンではなく、こちらを使用したのか。スーペル・コパ第1戦の会場も、カンプノウではなく、モンジュイック(1992年バルセロナ五輪のメイン会場。1997年から2009年までエスパニョールがホームとして使用)だった。その理由は定かではないが、その時、このスタジアムが後にUEFA認定のカテゴリー4スタジアムとなり、23年後にCL決勝が行なわれるとは、夢にも思わなかった。

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