世界有数の問題児、エジムンド。日本でも活躍したお騒がせFWのクラブ愛 (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

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 契約でカーニバルには参加できるようになっていたらしいが、この一件は極めて印象が悪い。千載一遇のチャンスを逃したヴィオラのファンにしてみれば、20世紀最大のガッカリかもしれない。

 のちにネイマールがブラジルで療養中にカーニバルで遊び回っていたことで、所属のパリ・サンジェルマンのファンから批判された。この件で意見を求められたエジムンドはこう答えている。

「カーニバルは引退してからも何度でも来る。選手はキャリアを優先すべきだ」

 まさに「お前が言うな!」と全方位からツッコミが入りそうだが、本人も「自分は適役じゃないけど」「もし聞く気持ちがあるなら」と、かなり前置きを重ねたうえで話しているので、たぶん後悔はしているのだろう。

<世界一の2トップ>

 ヴァスコ・ダ・ガマでデビューし、引退した。ただ、その間にいくつものクラブでプレーしている。パルメイラスでは93、94年と全国選手権を連覇。当時のパルメイラスは、セザール・サンパイオ、ロベルト・カルロス、フレディ・リンコン、エバイール、リバウドという錚々たるメンバーを擁している。

 イタリアの食品メーカー、パルマラット社がスポンサーについてバブリーな時期だった。ヨーロッパはアヤックス、南米はパルメイラスが無双ぶりを誇示していた時代である。

 エジムンドは止めようのないFWとして大活躍だったが、守備の重鎮だったアントニオ・カルロスと仲が悪かったらしく、バンデルレイ・ルシェンブルゴ監督とも衝突してチームを去っている。

 フラメンゴに移籍してロマーリオとの「世界一の2トップ」を組むが、その95年に3人が死亡する自動車事故を起こしてしまう。翌年にサンパウロのコリンチャンスへ移籍したのは、とにかくリオから離れたかったからだ。しかし今度はクリスと合わずに古巣のヴァスコへ戻った。どうも守備のリーダーとはうまくいかないらしい。

 心のクラブ、ヴァスコへ戻った97年は全国選手権優勝の立役者となる。29ゴールはレイナウド(アトレティコ・ミネイロ)が打ち立てた記録を20年ぶりに打ち破るものだった。97年も全国選手権連覇。意気揚々とイタリアのフィオレンティーナへ移籍するのだが、99年に例のカーニバル事件、チンパンジー飲酒事件、さらに95年にリオで起こした事故の判決(懲役4年6カ月)のトリプル・ダメージを負ってしまう。

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