遠藤保仁タイプ。70年代欧州サッカー、忘れられない孤高の天才がいる (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by AFLO

無料会員限定記事

 ネッツァーの名を世界に轟かせたのは1972年のヨーロッパ選手権(ユーロ)だ。準々決勝のイングランド戦は、リベロのフランツ・ベッケンバウアーと交互に深いところから組み立てを行なってイングランドを翻弄した。敵地ウェンブリーで3-1と快勝、ネッツァーのキャリア最高の試合と言われている。

 ただ、このころ世界最強クラスだった西ドイツ代表とは不思議に縁がなく、1970年メキシコワールドカップは負傷でメンバーから外れ、優勝した1974年の西ドイツ大会では、わずか20分間プレーしただけだ。

ボルシアMGと共に躍進

 ケルンの郊外の小さな街、メンヒェングラッドバッハの駅を降りると、いくつかのバス停の風よけガラスに大きな絵が描かれていた。学者や政治家など、地元の名士と思われる肖像画の中にヘネス・バイスバイラーの絵があった。ボルシアMGをヨーロッパの強豪に導いた名将である。

 バスに乗ってスタジアムへ向かう途中にも大きなイラストが並んでいた。その中の1枚にもバイスバイラー監督が描かれていて、その隣にはボールに座って監督と話し込んでいるネッツァーの姿があった。

 69-70シーズンにブンデスリーガ初優勝、その次のシーズンも連覇。バイエルンと並ぶドイツの強豪にのしあがっている。攻撃サッカーが看板で、その両輪が監督のバイスバイラーと中心選手のネッツァーだった。2人とも自分が正しいと思ったら一歩も引かない性格だったようで、激しく意見をぶつけ合うこともしばしば。ただ、喧嘩ばかりしているわりには強い絆で結ばれていたようだ。

 1973年のドイツカップ決勝のエピソードが2人の関係をよく表わしている。バイスバイラー監督は負傷明けのネッツァーを起用しなかった。折しもネッツァーのレアル・マドリードへの移籍が決定的となっていて、2人の関係は修復不能とも言われていた。

 ケルンとの激闘が延長に入ると、ネッツァーはウォーミングアップを開始。勝手に選手交代を行なってフィールドに出る。その間、バイスバイラーは何も言わない。互いに目も合わせない。91分にフィールドインしたネッツァーは3分後に決勝ゴールをゲットした。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る