長谷部誠が難民キャンプを訪問。
ロヒンギャの子どもたちに勇気を与えた

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 守よりもほぼひと回り、12歳年上の長谷川留理華(ロヒンギャ名:ルインティダ)というロヒンギャの女性がいる。留理華が2001年に両親と共に館林に来た頃は、日本語がわからないこともあり、中学校では壮絶なイジメにあった。昼食の弁当ひとつ取ってみても文化的な背景から、毎日がカレー食である彼女に対して「だからあいつは肌の色が違うんだ」等の残酷な言葉が浴びせられた。

 留理華の年齢は、突然無国籍にされてしまった世代である。ミャンマーにいた12歳のとき、国民カードをもらいに行った役所で『ここはお前たちカラー(ロヒンギャに対する侮蔑語)が来るところではない』と怒鳴られて追い出された記憶がある。祖父母も両親も取得できていた身分を保証する国民カードが1989年に回収されて、それ以降、ロヒンギャの子息には発給されなくなってしまったのである。

 留理華は、祖国での迫害、そして新天地として来た日本での偏見と差別に遭い、心が折れそうになったが、屈することなく、日本の高校を卒業し、現在は日本国籍を取得して通訳として活動している。

 館林に来たロヒンギャ難民の一世の人々は(留理華は二世であるが)、イスラム教徒に対する偏見を払しょくするように活動を展開し、積極的に地域活動にも参加していった。そして、在日ビルマ・ロヒンギャ協会を立ち上げると、後から頼って来るニューカマーの同胞にも「ここで生きていくのならば、法律を絶対に守れ」とコンプライアンスを説いた。結果、町の人々の大きな信頼をかち得ていった。

 守の父親、水野保世(ロヒンギャ名アウンティン)もまた一世として、血のにじむような努力を重ねて日本で生活していく信用と基盤を築いて来た。「私は日本国籍を取ったのだから、日本のために働く、そして税金を納める。でも、ロヒンギャであることをひと時も忘れない」と言うのが口癖だった。

 守は大好きなサッカーをしていく中で、アイデンティティについて目覚めていった。日本の学校へ通いながら、家庭ではミャンマー語とロヒンギャ語を父親から熱心に学んだ。父は、「我々はロヒンギャであると同時にミャンマー国民でもあったのだから、この二つの言葉を忘れてはいけない」と常に言っていた。

 そんな守たちのコミュニティを震撼させる事件が、2017年8月26日に勃発した。ラカイン州でミャンマー国軍と仏教系右派団体によるロヒンギャに対する軍事掃討作戦が始まったのである。

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