ストイコビッチからジャカとシャキリまで。コソボ紛争をサッカーから理解する (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Jiji Photo

 ユーゴはボスニア紛争に対して国連からスポーツ制裁を科せられ、2年半に渡ってあらゆる国際大会への出場を禁じられていた。この措置は、今振り返っても奇異に思える。サダム・フセインがクウェートを侵攻したときのイラク、そしてアサド政権下で泥沼の内戦状態にある現在のシリアでさえW杯予選には出場が許されている。一説には反セルビアの米政府が1994年のアメリカW杯大会に出場させたくなかったからとも言われている。いずれにしても政治によってサッカー選手としての存在自体を否定されたストイコビッチは92年、96年の欧州選手権を含む主要国際大会への出場も叶わず、キャリアの貴重な時間を無為に過ごさせられていた。

 ストレスの溜まる状況下、さらにはヨーロッパから遠く離れた日本でのプレーは「妖精」と呼ばれた男から冷静さを奪っていた。当時のストイコビッチのパブリックイメージは「抜群に上手いけれどキレやすいエゴイスト」というようなものだった。サッカー専門誌では激怒している顔のイラストが定番として掲載されていた。実際、私自身も「確かにスーパーなプレーは連発するが、周囲の人望は無いだろう」そんなふうに思っていた。

 それが一気に変わったのは、セルビアの首都ベオグラードにW杯フランス大会予選のスペイン戦を観戦に行ったときである。サッカー協会関係者のみならず、一般市民までが「ピクシーは人格者」と口を揃えた。イメージのギャップに驚いたが、試合の翌日に本人に遭うとさらにその表情の温和さに吃驚(びっくり)した。アポも取らずに夫人の経営するブティックに突然現れて取材を迫ったにも関わらず極めて紳士的な対応でインタビューに答えてくれた。質問の意図を考えながら物静かに言葉を選ぶ。これがあのイエローを出した審判のカードを奪って逆に突き付けた男なのか。先入観がいかに目を曇らせられるのか。

 同時にまた現地を歩いたことで、当時ユーゴ紛争の解釈において広く流布されていた「セルビア悪玉論」も過ちであることに気づかされた。ベオグラード郊外ではセルビア人の難民があふれかえっていた。ボスニアのボゴシチャやクロアチアのクライナから、家を焼かれて追われてきたその背景を聞くとセルビアだけが一方的な加害者という思い込みは覆された。ところが、その戦争被害者たちの存在は無視され、取り上げるメディアは皆無であった。今でこそ「セルビア悪玉論」は「戦争広告代理店」の暗躍などで喧伝されていたことが明らかになっているが、当時はまだ西側のバイアスがかかった報道が一般的に流通していた。

「すべての民族が加害者であり、すべての民族が被害者である」というのが、ユーゴ紛争の真実でありながら、西側報道はあまりに一方的な善悪二元論で絶対的な悪者を作り上げていた。それはまた私の脳内にあるピクシーの「なぜ正当に裁いてくれないのか!」と苛立つ姿にシンクロした。

 微力ながらこの不可視に置かれたユーゴの内情を目に見えるかたちで伝えたいと考えた。

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