ジラルディーノ現役引退。アテネ五輪で日本を粉砕した並外れた冷静さ (3ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki photo by AFLO

 当時、ジラルディーノを400万リラ(当時のレートで約25万円)でビエッレーゼに引き抜いたスカウトはそんな話を明かしていた。冷静さの中に情熱を見出したのだろう。

 ジラルディーノは、胸の内で情熱をたぎらせるタイプだった。ストライカーはエゴイストと言われるが、彼の場合はキャプテンとして仲間を気遣い、チームをひとつにまとめることができた。監督と対話し、ひとつひとつの問題に向き合うような少年だった。

「実力もあったが、なにも言わないのに、仲間たちがついていってしまうようなオーラがあった」

 当時のチームメイトは証言していた。
 
 ジラルディーノのキャリアは順風満帆だったわけではない。実はユベントスのユース入団テストに2度挑戦しているが、いずれも落第してしまった。父がユベンティーノで、彼も1997年、欧州王者になった試合に目を輝かせていた。挫折感に苛まれたに違いない。

 この時期、ジラルディーノは自分自身と向き合うようになって、さらに老成したという。世界的プレーヤーの多くが、10代で大きな挫折を乗り越えている。感情の揺れを経て、彼も大人のプレーヤーに成長した。

 若くして成熟したジラルディーノは、17歳のときにピアチェンツァでトップデビューを果たして以来、毎年ゴールを決め続けた。ときに監督の構想から外れることはあったが、ゴールを叩き込み、自らの道を切り開いてきた。セリエAという、FWにとっては(ディフェンシブな戦術を採用するため)もっとも過酷なリーグで、(カップ戦を含めて)200得点以上を記録。代表や中国超級リーグ(2014年)でのゴールなどを含めると、生涯で300点近くになる。

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