本田、長友は去っても「イタリアのクラブは日本人をほしがるだろう」 (2ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko photo by Giglio/Football Press

 そして2014年には、インテルのライバル、ミランにもう1人の日本人がやって来た。本田圭佑だ。

「それまでの日本人選手は、イタリアに来るまでほとんどその存在が知られていなかったのに対し、本田はすでに有名だった。世界に通用するレベルの選手と、サポーターはその加入を歓迎したものだ」

 イタリアを代表するビッグクラブといえば、やはりユベントス、インテル、ミラン。そのうちの2チームに日本人の選手が所属するという状況は、1990年代と比べると隔世の感があった。

「本田は何においてもスターだった。常にエレガントで、どんなときでも完璧で、ピッチではそのパーソナリティを強く感じさせた。彼は栄光の背番号10を希望した。たぶんそれだけの気概を持ってミラノにやって来たのだろう。しかし残念ながら、時期が悪かった」      

 かつてイタリアサッカー、いやヨーロッパサッカーを牽引していたミランだったが、近年は低迷し、本田の所属していた3年半の間に監督が7人も入れ代わった。

「次々と代わる監督たちは、本田をうまく使いこなすことができなかった。彼はトレクァルティスタ、つまり2トップの後ろにいるときに力を発揮する。しかし彼がミランでこの本来のポジションでプレーすることは稀だった。ポジションにおいて、彼は監督の指示を尊重したが、何か重要なことを言わなければいけないときは決して後へは引かなかった」

 監督のヴィンチェンツォ・モンテッラが本田をベンチに押しやったときも、彼はその境遇を粛々と受け入れ、決して不平を漏らしてチームの和を乱すようなことはなかった。しかし契約から解放されるや否や、彼はチームを去っていった。

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