愛された2人。中村俊輔、森本貴幸は今も南イタリアの人々の心に残る (3ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko photo by Sino/Football Press

 それでも、メッシーナはあきらめなかった。2006年、今度は小笠原満男を獲得する。

「しかし彼もまた成功したとは言えなかった。プレーしたのはたった6試合。ただ、2-2で終えたエンポリ戦で1ゴールだけ決めている」

 2006年の夏の移籍市場が閉まる最終日、トリノの会長ウルバーノ・カイロはジャンニ・デ・ビアージ監督(のちのアルバニア代表監督)を呼んでこう言った。

「ミステル、私は大黒将志を獲得したよ。嬉しいかね?」
「大黒? いったい誰ですか?」

 その4日後、デ・ビアージは解任され、後任にアルベルト・ザッケローニが就いた。しかしザックも翌年2月にはクビになり、契約が残っていたデ・ビアージがまた呼び戻された。

「イタリアのクラブチームの会長は、いつもこんな風なんだよ。チームは低迷していたし、監督も大黒を顧みなかったので、彼に出番はなかなか回ってこない。それにもうひとつ、これは全く大黒のせいではないのだが、彼にはどうしようもできないマイナスの事実があった。それは彼の誕生日が5月4日だったということだ。1949年のまさに5月4日に、かのスペルガの悲劇が起きたんだ」

"スペルガの悲劇"とは、トリノの選手たちが乗る遠征帰りの飛行機が、トリノ目前のスペルガの丘に墜落、選手、コーチ、スタッフ全員が亡くなった大事故のことだ。トリノは当時、セリエA最強を誇り、リーグ連覇をしていたが、この事故以降は弱体化してしまう。5月4日はトリノサポーターには悲しくも忘れ難い日付だったのだ。

「監督に顧みられないばかりか、験(げん)を担ぐサポーターからも嫌われてしまった。こうして大黒は2年間でたった10試合しか使ってもらえず、ゴールもできなかった。イタリアでの冒険は失敗だったというしかない」

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