W杯の物語。ブラジルはなぜサッカー王国になったのか (3ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 ゴールドブラットは正直にこう書いている。「この本は、ほかの誰かの手で書かれるべきだった。できればブラジル人が、少なくともポルトガル語に精通している人が書くべきだった」。確かに英語の資料に頼っている点は弱みではある。それでもゴールドブラットには、フットボールを社会・経済的な文脈に落とし込み、まとめ上げる才能と、驚くほどの雄弁さがある。静かな出だしの後、物語は1950年から一気に進んでいく。

 ゴールドブラットは、ブラジルが「雑種の国」という自画像を受け入れるうえでフットボールが果たした役割を描く。1930年代に社会学者のジルベルト・フレイレが、ブラジルの「混血」文化は誇りであって恥ではないという国民の物語を描きはじめた。北西部のサトウキビ農園について書いた著書で、フレイレは白人の農園主と黒人奴隷が性的な関係を持ったことを肯定的に書いている。これによって「ブラジル人」という特別な人種が生まれたと、彼は言う。

 さらにフレイレは、ブラジルの「混血主義」がこの国のフットボールにリズムと芸術性と、狡さをもたらしたと説く。これによってブラジルには、イングランドやアルゼンチンといった白人の国より強く美しいフットボールの国になる素地が生まれた。

「混血」文化にまつわるフレイレの理論は、ついにペレやガリンシャといった選手によって証明される。1958年のワールドカップ決勝でブラジルが開催国のスウェーデンを破ると、「スウェーデン国王が歓喜の輪に加わるために、ピッチまで降りてきた」と、ゴールドブラットは書いている。世界はブラジルのフットボールに魅了されていった。そしてブラジルは1962年のワールドカップで連覇を遂げる。

 振り返れば、この時代がブラジルの黄金期だった。フットボールだけではない。当時のブラジルはもっと暴力とは縁遠く、経済も急速に発展していた。1964年の軍事クーデターはまだ起きていなかった。優れた選手はヨーロッパへ行くわけではなく、まだブラジルのクラブでプレイしていた。子供たちがフットボールをする場所もたくさんあった。1960年のブラジルの人口は約7000万人にすぎなかった。現在はざっと2億人だ。貧しい家庭の子どもはビーチで遊んだことがないばかりか、海を目にしたこともない子がほとんどだ。

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