ファーガソンは何をマンチェスター・Uに持ち込んだか (2ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 大変な成功を収めながら、ファーガソンは自分が何でも知っているなどと誤解することはなかった。彼はつねに学びつづけた。

 1992年に移籍してきたフランス人選手のエリック・カントナからは、イギリス人選手が自分の仕事を本当は真剣にとらえていないことを学んだ。ドリス・カーンズ・グッドウィンが書いたエイブラハム・リンカーン元米大統領の900ページに及ぶ伝記『チーム・オブ・ライバルズ』(邦訳『リンカーン』中公文庫)からは、組織の中で対立する人たちをどう扱うべきかを学んだ。

 ファーガソンは毎日、何時間も電話で話し、元選手や監督仲間から情報を得ていた。彼の持つ人脈は、フットボール界の枠をはるかに越えていた。

 情報源とは相手が死ぬまでつき合い通した。ファーガソンの伝記を書いたパトリック・バークレーは、フットボール界で彼ほど多くの葬儀に出席している人物はいないのではないかと書いている。ある会合でイギリスのスポーツ大臣がファーガソンを怒らせたとき、彼は当時の首相トニー・ブレアの直通電話を鳴らし、不満を伝えた。

 ファーガソンにとって、知識はパワーの源泉だった。彼があずかり知らないところで、オールド・トラフォードに誰か(何か)が入ることはなかった。選手の試合前のトイレの習慣も把握しており、いつもよりトイレに行く回数が多くないかチェックしていた。サポーターのリーダーたちとも電話で長話をした。

 2004年、サポーターのリーダーのひとりがファーガソンに、イラクから渡ってきてマンチェスター近郊に住んでいるクルド人難民たちの話をした。彼らは試合のチケットやスタジアムの写真を大切にとっているようなユナイテッドのファンだったのだが、なぜかオールド・トラフォードの爆破テロを計画していると誤解され、警察に身柄を拘束されたという。ファーガソンは静かに事を進め、クルド人の一行をチームの非公開練習に招待した。

 クルド人の一行はクラブの評価を左右しかねない「客」だった。そういう人たちには、いつもハッピーでいてもらわないといけない。このとき「客」たちはハッピーどころか、大興奮だったのだが。
(続く)

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