横浜マリノス黎明期「最高の黒子」エバートン 技術は平均レベルなのにピッチ上での存在感は圧倒的 (2ページ目)
【チーム屈指のハードワーカー】
来日はJリーグ開幕前である。Jリーグ開幕前の日本サッカーリーグで、静かにキャリアを編んでいった。
大舞台に強い、との印象がある。
横浜マリノスとなる前の日産自動車サッカー部は、エバートンの加入後2シーズン連続でリーグ2位にとどまった。ライバルの読売クラブの後塵を拝したのだが、天皇杯では強さを発揮する。1992年元日の決勝で読売クラブを4-1で退け、1993年元日の決勝でも読売クラブを延長線の末に2-1で勝利。エバートンはどちらの試合にも出場し、はっきりとした存在感を放った。
日本リーグ(JSL)からJリーグへ移行するタイミングの日産は、世代交代を進めるタイミングにあった。日産と日本代表を長く牽引してきた木村や水沼が健在ぶりを示していた一方で、野田知、財前恵一、松橋力蔵、山田隆裕、神野卓哉といった若いMFやFWを、計算できる戦力にしていく必要があった。
過渡期を迎えているチームで、エンジンとなったのがエバートンである。
ボールコントロールは平均的なレベルだった。ドリブルはなめらかさを感じさせるものではなく、ゴツゴツとした印象だった。「ブラジル人=技術に優れる」という一般的な考えは、エバートンには当てはまらなかったと言っていい。
それでも、ピッチ上での存在感は圧倒的なのだ。すでに30歳を過ぎていたが、タフでエネルギッシュなのである。
とにかくひたむきで、あきらめることがない。ネガティブトランジション(攻撃から守備への切り替え)では、チームの誰よりも早く帰陣して、ボールに食らいついていった。ボールのあるところにはいつもエバートンがいる、と言いたくなるほどなのだ。
「労を惜しまない」という表現が、彼ほど当てはまる選手もいなかっただろう。その献身的なプレーぶりは、感動的ですらあった。日産、マリノス黎明期の背番号7と言えば、個人的にはエバートンなのである。
チーム屈指のハードワーカーは、プレースタイルを徐々にアップデートすることにも成功する。シーズンを重ねるごとに得点数でキャリアハイを更新し、1992年のナビスコカップでは9試合で7ゴールを記録した。10ゴールの三浦知良に次ぐ2位タイの成績を残す。
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