国立のヒーローたちが振り返る、「日本のサッカーで唯一客が入った」時代の高校選手権

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao

女性ファンが集まりすぎてパトカーが

山田「当時、日本のサッカーで唯一お客さんが入るのが高校サッカーでした。パーパーパパパパ~っていう、テーマ曲『ふり向くな君は美しい』が流れると、みんな飛び上がって喜んだというか。それにしても平澤さんの頃の東海大一のフィーバーぶりはすごかった。2年連続で選手権決勝に行ったのもそうだけど、3トップが主流だった時代に、東一(東海大一の略称)は2トップで戦っていたのもオシャレに見えた。ベレーザ(三渡洲アデミール、元清水エスパルスなど)や澤登(正朗、元清水エスパルス)さんもいたけど、平澤さんはもうアイドル並の人気だったじゃないですか」

森崎「サッカーがうまくて、顔は中村繁之(俳優、元ジャニーズのアイドル)似で(笑)」

平澤「確かに18歳の頃の比較なら、福山雅治よりオレのほうがモテたかも。追っかけの女の子たちが集まりすぎてパトカーが来ちゃったこともあったから(笑)」

森崎「僕、小5の時に平澤さんが高校選抜で東大の検見川グラウンドに来て、一緒に写真を撮ってもらっていますからね。中学の時に憧れていたのが山田さんで、山田さんがアシックスのイエローラインのインジェクター(固定式スパイク)を履いていたから、静岡のサッカーショップ『GOAL』で通販してまで同じのを買っていました(笑)」

――80年代は静岡代表が7度も決勝に進出するなど、強さが目立ちました。

山田「清水東、東一、清商の3強時代で、予選を勝ち抜けば本大会では準決勝まで行くのが当たり前という時代だった。ただ、国立競技場以上に憧れだったのは、県大会のメイン会場だった草薙競技場。草薙こそ静岡の高校サッカーの聖地で、そこで活躍するのがモチベーションだった」

平澤「東一が選手権に出たのは、オレらが2、3年時の2回だけ。その前後の11年間で静岡県の決勝には8回行っていたんだけど、清水東や清商に負けてね。いまでも『清商ガンバレ!』っていう『清商サンバ』は聞くと腹立つし、『燃える闘魂』(東一のブラスバンド部が応援で演奏していたアントニオ猪木の入場曲)を聞くと気合いが入るからね(笑)」

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