レオナルド、鹿島時代は「キャリアで最高の時だったかもしれない」。日本文化もその後の人生に影響を与えていた (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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【W杯後、鹿島入りを決めた理由】

 確かにチームは優勝した。だが、彼自身は決勝トーナメントの1戦目で退場となり、その後の試合は出場停止となった。彼の代わりにはカフーが入り、レオナルドはセレソンでのレギュラーの座さえ危ういと感じていた。満足よりも失望のほうが大きいW杯だった。

 ブラジルでは多くの批判が彼を待ち構えていた。「まるでどこか檻に閉じ込められているような気がした」とレオナルドは言う。できることならどこか遠くに行きたかった。まるで違う世界に飛び込みたかった。ヨーロッパからのオファーがあればすぐにそれを受けようとレオナルドは考えていたが、それよりもっといい手があった。それが日本だった。

 この時のジーコは非常に狡猾だった。こうしたレオナルドの胸の内を察知すると、すかさず彼に声をかけたのだ。

 実を言うと、ジーコは当初、レオナルドの獲得を考えていなかった。もっと若いブラジル人選手を鹿島アントラーズに連れてこようと考えていた。しかし移籍市場にレオナルドの名前が挙がると、ジーコはすぐに考えを変えた。

 この時、ジーコは自分の後継者を探していた。40歳を過ぎた彼は、もうプレーできる時間はそう長くないことを知っていた。チームのためにも、決まったポジションはなく、彼のように必要ならばどこでも助けられる選手を見つける必要があった。ジーコはレオナルドのことをフラメンゴでプレーする少年の頃から知っていた。レオナルドは多くのポジションでプレーできる。聡明で真面目で、まさに彼が求めていた選手だった。

 レオナルドを獲得するよう鹿島を説得するのは「想像していたよりずっと簡単だった」とジーコは言う。最初、鹿島の幹部にレオナルドの名を告げた時は、あまりピンとこなかったようだが、レオナルド自身がブラジルを出たがっていること、そして鹿島の最高の選手となるだろうと力説すると、すんなり会議を通ったという。

 最初のコンタクトはまだW杯期間中だったともいう。レオナルドは当時24歳。彼のパスを保有していたバレンシアが鹿島に提示したのは400万ドル(当時の為替レートで約4億円)。鹿島の歴史のなかでも最高額だった。報酬も高く3年間契約で年俸約100万ドル。鹿島幹部はその金額にはさすがに躊躇したが、ジーコが「決して後悔はしないでしょう」と言いきると、本格的にレオナルドの獲得に乗り出した。

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