豊田陽平が語る移籍、J2残留、そして「死んでいないことを証明したかった」 (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

【退路を断って移籍を決断】

<自分はクラブのチョイスに入っていない>

 彼は痛々しいほどにそれを感じた。しかし、あきらめる気持ちにはならなかった。出番があったらクラブのために何か表現したい、という焦燥に駆られながらも、自分をサッカー選手として求めてくれる場所があるなら探したい、という結論にいき当たった。そこで試合後、強化部長に意志を伝えた。

「鳥栖には感謝の気持ちだけです。このクラブに入れてよかったし、成長することで恩返しもできました。『豊田からの脱却』みたいに周りに言われるのは切なかったし、俯瞰すると、フェードアウトさせられているんだろうな、というのは感じていました。でも、『"戦術豊田"と揶揄されるまで、このクラブでやってきたんだ』と自分に言い聞かせて、次のステップに進むことを決めました」

 7月、豊田はレンタルではなく、退路を断って栃木への移籍を決めた。愚直な選択は彼らしかった。

「いくつかオファーをもらいましたが、あえてシビアな条件を選択しました。自分自身を奮い立たせようと。保険をかけて他のチームに行くのは失礼だし、性に合わないので。何より、『豊田陽平はまだ死んでいない』というのを証明したかった」

 9月、レノファ山口戦ではヘディングで2得点を記録した。J1で5年連続二けた得点の実績は伊達ではない。守備や空中戦での献身性がアピールされがちだが、ゴールによって鳥栖をけん引したからこそ、エースの称号を与えられたのである。11月、ブラウブリッツ秋田戦でもゴール前の混戦で押し込み、貴重な勝ち点1をもたらした。

 豊田が加入後、栃木は大きく負け越していた成績をリカバリーし、勝ち負け引き分けがほぼ並んだ。

「"まだやれる"というところで辞めるのが美学、と昔は思っていました。カテゴリーを下げてもやるのかっていうのはあって......」
 
 残留というひとつの仕事をやり遂げたからこそ、豊田は言う。

「でも、自分もサッカー人生でいろんな景色を見てきて、徐々に終わり方を考え直すようになりました。小さい頃は単純にサッカー選手になるのが夢で、なにくそという思いでどうにかプロになって、技術的にはうまくないけど、どう生き残るか、で工夫してやってきました。

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