なぜサッカーはPK戦で勝負をつけるのか。かつては再試合、抽選、CKの数で勝者を決めた時代があった (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo
  • photo by AFLO

【PK以上の方法は見つかっていない】

 PK戦に似た方式(シュートアウト)は昔からあったようだ。だが、1969年にFIFAに対してPK戦を正式に提案したのは、イスラエルのサッカー協会だった。1968年のメキシコ五輪準々決勝で、ブルガリアに抽選負けを喫したのがきっかけだった。この提案をFIFA審判委員会のメンバーだったコー・ヨーテー(マレーシア)が取り上げて、1970年にはIFAB(国際サッカー評議会=サッカー・ルールを制定する機関)でも承認された。マレーシアを含む東南アジアでも、PK戦のような決定方法は昔から行なわれていたらしい。

 PK戦という方式は1970年メキシコワールドカップには間に合わなかったが、幸いこの大会ではノックアウトステージでの引き分けはひとつもなかったし、1974年と1978年のワールドカップでは、2次リーグ方式が採用されていたのでPK戦は必要なかった(決勝は再試合方式だった)。

 ワールドカップで初めてPK戦が採用されたのは1982年のスペイン大会からで、準決勝の西ドイツ対フランス戦で初めてPK戦が行なわれ、西ドイツが勝利して決勝進出を果たした。

 ドイツ(西ドイツを含む)はPK戦が得意だった。1976年のヨーロッパ選手権(現在のEURO)決勝でPK戦負けしたため、その後熱心に研究したからだと言われている。この大会の決勝戦でチェコスロバキアが2-1でリードしていたが、西ドイツが終了間際に追いついたため、大規模国際大会で初めてのPK戦となった。

 そして、チェコスロバキアの1人目アントニーン・パネンカが見事なチップキックをゴール中央に決めて人々を驚かせたので、その後、GKを嘲笑うようなチップキックは「パネンカ」と呼ばれようになった。

 日本で初めてPK戦が行なわれたのは、1971年に東京で開催された第13回アジアユース選手権大会だった(現、AFC U-20アジアカップ)。日本は準決勝で韓国と0-0の引き分けに終わったのでPK戦に突入。5-6で敗れて決勝進出を阻まれてしまった(韓国は準々決勝のイラン戦に続いて2試合連続PK戦で勝利)。

 天皇杯では1972年度の第52回大会からPK戦が採用され、準々決勝の東洋工業対新日鉄戦で初めてPK戦が行なわれた。決勝で最初のPK戦決着は1991年元日の松下電器(現ガンバ大阪)対日産自動車(現横浜F・マリノス)の試合で、松下が勝利している。

 高校選手権でPK戦が採用されたのは1974年1月の第52回大会から。そして、大会初日の1回戦から2試合でPK戦が行なわれた。ただし、高校選手権ではその後も決勝戦で引き分けた場合は「両校優勝」という扱いが続いており、決勝で初めてPK戦が行なわれたのは2005年1月の大会で、この時は鹿児島実がPK戦で市立船橋を下して優勝している。

 PK戦には批判の声も大きいが、FIFAに正式採用されてから半世紀が経過したものの、PK戦以上の方法は見つかっていない。キッカーやGKの技術によって差がつくのだから、抽選よりはマシな解決法なのだろう。

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