中村憲剛×佐藤寿人「監督論」。毎日の練習が本当に楽しかった指導者は... (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

中村 Jリーグにルーマニア人監督がいたとは。

佐藤 そうなんですよ。それでシーズン途中に監督が交代になって、代行の神戸(清雄)さんを挟んで、ズデンコ・ベルデニックさんになりました。あのタイミングでズデンコさんの指導を受けたのは、衝撃的でしたね。

 サッカーが全然違うというか、頭を使ってやらないと成り立たないトレーニングが多かったんです。オシムさんやミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ)に似ていますね。そのあとにセレッソに行って、西村(昭宏)さん。次の年は仙台に移籍して、清水秀彦さん。でも、秀彦さんが解任になって、ズデンコさんにまた会うという。

中村 それ、2004年でしょ。そこで初めて寿人と対戦したね。というか、まだ2004年って......長いな、この話(笑)。

佐藤 そうなんです(笑)。でも、広島に行ってからはそんなに多くないですよ。小野(剛)さん、ミシャさん、森保(一)さんだけですから。それで名古屋では風間さん。千葉では(フアン)エスナイデルさん、最後はユン(ジョンファン)さんでした。

---- そのなかで、佐藤さんが影響を受けた監督は?

佐藤 影響を受けたというか、監督の難しさという部分で印象に残っているのは、実はこのなかにいなくて。2006年に小野さんからミシャさんに引き継ぐ間に、GKコーチだった望月(一頼)さんが暫定的に監督を務めたんです。

---- 広島が開幕から結果を出せずに、苦しんだシーズンですね。

佐藤 そうです。それで望月さんの下で「バックパス禁止」というサッカーを数試合やって。ボールを下げるのはリスクだから、とにかく前に蹴れ、というサッカーです。

 当然、僕はそれに対して反論をしましたし、ぶつかることもありました。こんなサッカーでは何も残らないと。でも、結果的に望月さんの指揮した4試合で2勝1分1敗と、勝ち点を7も積み上げることができたんです。

 あの時の望月さんは、どん底の状態は変えられないけど、次の監督に引き継ぐためにひとつでも多く勝ち点を取ると割り切っていた。そういう意味では、与えられた仕事をパーフェクトにこなしたんですよね。スタイルを作るだけではなく、プロチームを率いる監督はこういう決断も必要なんだってことを、あの時に初めて知りました。

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