クーデター抗議のミャンマー人選手。支援に「そこまで、私の人生について考えて下さったことに心から感謝します」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 翌日、祖母井の提案で、練習開始前に学生たちはミャンマーで亡くなった人たちへ1分間の黙とうをささげた。齊藤智浩コーチによる日本語での呼びかけであったが、瞬時に意味を察知したピエリアンアウンもまた両手を合わせて目をつぶった。

 彼には国軍の無差別銃撃による犠牲者を偲ぶ時、真っ先に浮かぶ2人のサッカー選手がいる。U21代表のキャプテンであったチェボーボーニェエン(ハンタワリユニテッド)とリンレットFCのGKアンゼンピョ、自分よりも若い選手がなぜ殺されなければならなかったのか。千葉のスタジアムで三本の指を出したのも彼らとともにいるという思いからだった。その反響は大きかったが、危険の代償も支払わされている。現在はマンダレーの父親が暮らす実家を常時、6人の国軍兵士が監視しているという。「父の家は道が狭くてとても分かりづらい場所なのに、すぐに特定されていたことに恐ろしさを感じました」彼が関空で残留を決めて、最初に発した言葉は「もしも私の家族に危害が及ぶようでしたら、私が帰国して逮捕されます」というものであった。親族への思いは人一倍強い男だけに気が気ではないはずだ。

 そんなことを思っていたら、斎藤コーチの「黙とう止め、お直り下さい」の声が響いた。

 トレーニング開始。芦川の指導は非常にキメの細かいものであった。その手順は医師さながらで、まず問診票代わりに、ゴール前で左右にボールを散らすと、すぐにバランスの悪さを見抜いた。ピエリアンアウンは右側の動きが硬い。診察が終わると処方に入る。足の運び、キャッチに飛んでからの着地の仕方。移動する重心のポイントなど、実際に範を示しながらアドバイスを送る。ときおり、患者は確認する。「そのケースはミャンマーで教わった時は......」「それでもいいよ。そっちのやり方がやりやすければ、完全な正解はひとつではない。でも次のプレーに移る時はそれだと遅れる」

 芦川は右にダイブした時の足の着き方をしつこく説明した。個別の練習が終わると、ゲームに入っていく。ここは実戦でゴールマウス前に立つ。「日本の大学生のレベルの高さにも感心しました。ミャンマーの学生とは比べものになりません。まず何より、このグランドやボール、施設の立派さに驚きました」

 芦川教室は3日間開かれたが、最終日を前にそれまで練習の通訳を買って出ていてくれたミャンマー人のアウンミャッウインが大阪に帰ることになった。アウンミャッウインは1998年に来日した難民認定者で、現在は大阪で介護事業を営んでいる。ピエリアンアウンの関空での脱出時から、保証人として献身的にサポートしてきた。記者会見や練習では常にボランティアで通訳をこなしてきたが、さすがに関西に置いてきた自分の仕事をこれ以上、放っておくわけにはいかなくなった。

 では誰が芦川コーチの意思を伝えるのか。ただ蹴って止めさせる、というコーチではなく、一本ごとに注視する指導ゆえに、その細かいニュアンスを伝えなければあまりにもったいない。思案していたら、ひとりの男を思い出した。「アイバがいた!」。相葉翔太は日本人ながら在日朝鮮蹴球団の流れを組むFCコリアでプレーしていた男。私とはFCコリアが参加したCONIFAアブハジア大会で知り合っていた。現在、相葉は現役を退き、JICA(国際協力機構)の仕事でミャンマーに派遣され、ヤンゴンで子どもたちにサッカーを教える任務に就いていたのだ。

 コロナで帰国を余儀なくされたが、サッカーの会話はお手のもので、これほどの人材はいない。打診をすると、「彼のことは報道で知って、何か関われないかと思っていたので、この機会は嬉しいです」。急な依頼にも関わらず、快く千葉に来てくれた。初対面から、ふたりはウマが合ったようだった。年齢は相葉が年上だが、ミャンマーのサッカーシーンに詳しい人物との出会いに寡黙だった代表GKも自然と饒舌になった。相葉はヤンゴンにいたかつての教え子にピエリアンアウンのサポートをすることをメッセージで知らせていた。

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