クーデター抗議のミャンマー人選手。支援に「そこまで、私の人生について考えて下さったことに心から感謝します」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 横浜での練習を終えると、休む間もなく、千葉に向かって車の移動を開始した。元ジェフ千葉のGMであった祖母井(うばがい)秀隆がGKとしての強化トレーニングの日程を組み、迎えに来てくれていたのだ。

 日本サッカー界における祖母井の功績は今さら言うまでもない。西ドイツ(ドイツ)留学時代から培った幅広い独自の人脈から、数多くのヨーロッパの名将たちを日本に招聘したことにある。ゲルト・エンゲルス(ドイツ)、ズデンコ・ベルデニック(スロベニア)、ニコラエ・ザムフィール(ルーマニア)、ジョゼフ・ベングロッシュ(スロバキア)、そしてイビツァ・オシム(ボスニア)。途切れることなく連綿と続いた人材の来日は、各名将たちの祖母井個人に対する信頼の表れであった。カネでは動かないオシムがジェフ市原(当時)に来たのは、祖母井からのオファーがあったからというのは知られた逸話である。

 その祖母井に今回、ピエリアンアウンが上京する旨を知らせると、「それならキーパーとしての指導を受ける機会を提供しましょう」と即座にプロのGKコーチである芦川昌彦に指導を依頼し、自らが監督を務める淑徳大学のサッカー部に招いてくれたのである。芦川は名古屋グランパスやジェフ千葉でコーチとして豊富な経験を積んできた人物であり、基礎からGKの練習に取り組みたいピエリアンアウンにとっては願ってもない機会となった。

 祖母井の反応が速かったのは、自身も難民支援をこれまでも地道に行なってきていたことが大きい。ほとんど知られていないが、2007年にグルノーブル・フット38のGMとしてフランスに渡る直前まで、ドイツ人の妻とともに牛久の東日本入管に収監されていたイラン人難民申請者のサポートをしていたのである。Jリーグ広しと言えど、牛久で収容者との面会を重ねたサッカー関係者はほとんどいない。

 その原点は1975年の西ドイツ(当時)、ケルン体育大学への留学経験にある。祖母井はこのケルンの地で多くのインドシナ難民やトルコ移民たちと遭遇していた。外国に身を置き、苛烈な環境で苦しみながらたくましく生きていこうとする人々との交流によって視野は広がり、そこから受けた影響は少なくなかった。元来、祖母井には難民に対する何の偏見もなかった。

 千葉へ向かう車中、ハンドルを握りながら、こんなことを言った。「ドイツでも日本でも私は難民を助けたとは一度も思っていない。そこから私が学んだことのほうがはるかに大きいからです。私の妹の夫はクルド人ですが、彼からも多くのものを得ていますよ。今度、映画で『東京クルド』(現在は公開中)ってやるじゃないですか。あれも観に行くつもりです」

 常に仕事するパートナーの人柄を観察するオシムが祖母井に初対面から心を許したのは、かようなメンタリティの持ち主であるからなのは間違いない。何となれば、オシムファミリーもまたサラエボ包囲戦で故郷ボスニアを追われた政治難民である。1990年のイタリアW杯でユーゴスラビアをベスト8に導いた英雄の家は、市民の祝賀パレードの最終地点とされた。ところがその2年後、民族主義が台頭して政治情勢が一転すると、同じ国の人民軍のスナイパーに狙われて膨大な数の実弾がオシム家の居間や寝室に打ち込まれた。かつて2年に渡って包囲戦を耐え抜いた妻のアシマは「これは我が家のトロフィーよ」とクッキーの空き缶に集めたその実弾を見せてくれた。

「私たちは皆、難民だった」とメルケル独首相は言ったとされるが、それは「誰もが皆、難民になりえる」という意味でもある。オシムはユーゴを出るとオーストリアの中堅クラブにすぎなかったシュトゥルムグラーツの監督となり、そこでチャンピオンズリーグ出場という過去にない結果をもたらす。「難民」はまた大きな知見と知識をもたらすのだ。

 淑徳大の練習場には元ジェフ千葉の佐藤勇人が来てくれた。祖母井はジュニアユースの指導者として勇人が中学三年生の時から、その生活を見ている。「うまかったけど、もうやんちゃでね」。サッカーをしながら、髪を赤く染め、サーフィンや日焼けサロンに通っていた頃である。その勇人がオシムチルドレンとして開花し、代表にまで上り詰め、今日はまたかつての恩師のチームに駆けつけてくれている。日本代表とミャンマー代表の邂逅である。

 祖母井が、私に学生の前で話をしてほしいと言うので、ピエリアンアウンが日本にいる背景について話した。学生選手を怖がらせないようにとのことで、彼の入れ墨についても「えーと、これはミャンマーの文化で〜」ととろとろ語っていたら、勇人が「そんなの全然、平気っすよ〜、俺なんか〜」と袖を捲くりあげて、二の腕にどでかく彫った息子の名前を見せてくれた。異国で生きて行こうとする選手を気遣うその優しさが嬉しかった。

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