鹿島を率いて9年。トニーニョ・セレーゾが語る日本サッカーの成長

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

◆カズ、ジーコ...鹿島初のブラジル人監督が語る日本の思い出

 トニーニョ・セレーゾは今でもまだ鹿島のサポーターだ。ブラジルからもチームのことを常に気にかけている。

 鹿島に来て1年目に三冠(Jリーグ年間王者、ナビスコカップ、天皇杯)を達成した。しかし、勝ち取ったのはそれだけだった。その理由をセレーゾに尋ねると、彼はこう答えた。

「今とは違う時代の話だ。当初アントラーズには優秀で有名な多くのスター選手がいた。しかし、彼らは30歳を超えていた。鹿島の将来を考えると、チームは若返りが必要だった。最初の2年は、それでも昔からの選手がベースになってタイトルをとることができた。だがその後、本格的に若手にシフトしていくようになると、同じような結果は望めなかった」

 その後、日本人選手もだんだんと成長していったとセレーゾは言う。

「若手の中にすごく優秀な選手がいた。私は彼を中心にチームを作ろうとしたが、彼はその後、フランスのマルセイユに行ってしまった。彼の名前は中田浩二。本当に才能ある選手で、彼の闘志と、新時代の日本を代表するようなテクニカルなプレーを見るのが私は好きだった。また小笠原満男や鈴木隆行もチームには欠かせない存在だった」

 日本を後にしたセレーゾはサウジアラビア、UAEのチームをいくつか率いた。UAEでは3シーズンを過ごし、すべてのチームでタイトルを勝ち取った。

「その時に日本で学んだ多くのことが役に立った」とセレーゾは言っている。

「日本では組織とか運営など、ピッチの外でのことも非常に重要であることを実感した。鹿島ではすべてのスタッフがプロ意識を持ち、それぞれの仕事に誇りを持って完璧にこなしていた。本当に完璧だった。なにより私のことも含め、他人をリスペクトしていた。

 日本人は信じないかもしれないが、鹿島のスタッフの誠実な仕事ぶりは、私には奇跡のように感じられた。こんなチームは世界にひとつしかないと思った。私の知っているサッカー界とはまるで違っていた。南米やヨーロッパのスタッフに比べると、一見冷淡にも見えるが、それは彼らがチームを愛していないからではない。彼らが本物のプロだからだ」

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